佐々木弘綱とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 佐々木弘綱の意味・解説 

ささき‐ひろつな【佐佐木弘綱】

読み方:ささきひろつな

[1828〜1891]国学者歌人伊勢の人。号、竹柏園。足代弘訓(あじろひろのり)の門下。子の信綱とともに日本歌学全書」を編集


佐々木弘綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/18 16:04 UTC 版)

佐々木 弘綱
人物情報
生誕 (1828-08-26) 1828年8月26日
日本三重県
死没 1891年6月25日(1891-06-25)(62歳)
子供 佐佐木信綱(国学者・歌人)、印東昌綱(国学者・歌人)
学問
研究分野 国学
研究機関 帝国大学
テンプレートを表示

佐々木 弘綱[1](ささき ひろつな、1828年8月26日文政11年7月16日)‐ 1891年明治24年)6月25日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した国学者歌人。号は鈴山、竹柏園など。

経歴

文政11年(1828年)、佐々木徳綱[2]の子として伊勢に生まれた。学者の家系であったため、若くして1000首の和歌を詠んだといわれている。このことがきっかけで、後に足代弘訓井上文雄、梶原昭豊の門人となり、和歌や国学を学んだ。また、山崎元庵の門人にもなり、蘭学についても学んだ。師の井上文雄や同時期に活躍した同じ歌人の八田知紀と共に、幕末の動乱期における著名な歌人として知られるようになる。

維新後の1882年(明治15年)、帝国大学文科大学古典講習科(現在の東京大学文学部)が創設されると同学科の教授となり、古典など国学を教授した。

研究内容・業績

家族・親族

  • 長男:佐佐木信綱は同じく国学者で歌人。
  • 次男:印東昌綱(1877~1944年)も国学者で歌人。22歳の時に印東家を継いだ。

著作

歌集

  • 『日本歌学全書』‐ 『万葉集』など古来の歌集を初めて活字にした著作。執筆中に死去したため、長男の信綱が刊行した。

著書

その他、代表的な古典文学作品を元にした著書が刊行されている。

出典

脚注

  1. ^ 姓は「佐佐木」とも表記される。
  2. ^ 医師、歌人である佐々木利綱の子。
  3. ^ 奈良女子大学・資料紹介


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「佐々木弘綱」の関連用語

佐々木弘綱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



佐々木弘綱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの佐々木弘綱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS