内山椿軒とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 内山椿軒の意味・解説 

内山椿軒

読み方うちやま ちんけん

江戸中期歌人幕臣通称(三)、名は淳時、字は文卿。別号に賀邸・芙蓉等。和歌を坂静山に学ぶ。江戸六歌仙一人江戸狂歌創始者でもあり、四方赤良唐衣橘洲楽管江らをそだてた。天明8年(1788)歿、67才。

内山椿軒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/04 14:17 UTC 版)

内山 椿軒(うちやま ちんけん、1723年[注 1]享保8年)- 1788年12月6日天明8年11月9日))は、江戸時代中期の狂歌師儒学者歌人である。名は淳時(なおとき)。通称は伝蔵(伝三とも)。字および別号の賀邸は江戸牛込加賀屋敷に住むのに因む[1]

経歴・人物

江戸の生まれ。幕臣であったとされているが不明である。後に文学に転向し、坂静山から和歌を学ぶ。後に烏丸光胤日野資枝からも和歌を学んだ。江戸における六歌仙の一人となる[1]

近隣の武家の子弟に和漢の学と和歌を教えたが、この弟子として、四方赤良(太田南畝)、唐衣橘洲朱楽菅江平秩東作らがいることで知られる[1]。これらの弟子は、後に狂歌の制作に転じ、椿軒自身も狂歌を好み、唐衣橘洲の狂名は椿軒が選び与えた。唐衣橘洲らが「明和十五番狂歌合」を催した時には萩原宗固とともに判者をつとめた[1]

天明期に入ると橘洲の『狂歌若葉集』の編集に協力して自作56首をのせ、息子の名義で序文を寄せているが、これは赤良の奔放な作風を好まなかったためらしく[1]、このため天明3年以降の天明狂歌流行時には局外者となっていた[1]

著作

注釈、出典、参考文献

注釈

  1. ^ 1722年(享和7年)説もある。

出典

  1. ^ a b c d e f 浜田「内山椿軒」『日本古典文学大辞典 第1巻』1983年https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12450529/1/157?keyword=江戸時代の 

参考文献



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内山椿軒」の関連用語

内山椿軒のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内山椿軒のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの内山椿軒 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS