石野広通
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石野 広通(いしの ひろみち、享保3年5月9日(1718年6月7日) - 寛政12年5月21日(1800年7月12日))は、江戸時代中後期の旗本・歌人・国学者。旗本で大番役をつとめた石野広包の子。本姓は中原、通称は平蔵。号は大沢(だいたく)・蹄渓・花月堂・通翁。家禄300石[1]。官途は従五位下遠江守。妻の勇子も「霞関集」に納められている歌人。
- ^ 上田正昭ほか監修、三省堂編修所編 『コンサイス日本人名事典 第5版』 三省堂、2009年、103頁。
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