蔦屋重三郎とは? わかりやすく解説

つたや‐じゅうざぶろう〔‐ヂユウザブラウ〕【蔦屋重三郎】

読み方:つたやじゅうざぶろう

1750〜1797]江戸後期出版業者江戸の人。本名喜多川柯理(からまる)。号、耕書堂通称蔦重(つたじゅう)。狂名、蔦唐丸(つたのからまる)。大田南畝山東京伝らと親交があり、多く洒落本黄表紙のほか、東洲斎写楽喜多川歌麿らの浮世絵版画出版した


蔦屋重三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/19 14:34 UTC 版)

蔦屋 重三郎
山東京伝『箱入娘面屋人魚』より
生誕 喜多川 柯理
1750年2月13日
新吉原
死没 1797年5月31日
江戸
国籍 日本
著名な実績 版元書肆狂歌師戯作者
代表作 吉原細見
影響を与えた
芸術家
大田南畝恋川春町山東京伝曲亭馬琴喜多川歌麿葛飾北斎東洲斎写楽など

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、1750年2月13日寛延3年1月7日[1][2] - 1797年5月31日寛政9年5月6日[3][2])は、江戸時代中期から後期にかけて活動した版元[4]

安永3年(1774年)に北尾重政の『一目千本』を刊行して以降、江戸日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担い、大田南畝恋川春町山東京伝曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎喜多川歌麿葛飾北斎東洲斎写楽など多数の作家、浮世絵師の作品刊行に携わった[5]。本姓は喜多川(生誕時の本姓は丸山)、本名は 柯理 からまる[6]。通称は「蔦重」、「重三郎」といわれる[5][6]。号は蔦屋[4]、耕書堂[2]、薜羅館など[2]。商標は「富士山形に蔦の葉」とされた[4]。自らも狂歌のほか戯作の制作も行っており、「蔦唐丸(つたのからまる)」と号した[4][2]。その他、俳諧では「蔦十」と号して句を寄せている[7]

生涯

吉原時代

重三郎は遊郭街のあったことでも知られた「吉原の里」で産まれたとされている[8]石川雅望が撰した『喜多川柯理墓碣銘』や大田南畝浅草正法寺に建てた実母顕彰碑文に拠れば、父は尾張の丸山重助、母は津与といい江戸の広瀬氏出身となっている[6][8][2]。父親の職業はわかっていないが、吉原という特殊な地域に関係のある仕事に就いていたと考えられている[6]。重三郎の本名は 柯理 からまるで、(おそらく数えの)7歳の時に父母と別れて、商家であった喜多川氏の養子となった[6][8][2]。「蔦屋」は喜多川氏が経営していた店の屋号で、重三郎はそこで幼年期を過ごした[8]

『籬の花』(1775年)
蔦屋が出版した最初の吉原細見

安永2年(1773年)には吉原五十間道に面した「蔦屋次郎兵衛店」を間借りし、書肆(しょし、本屋)「耕書堂」を営むようになった[8][9]。書店では鱗形屋孫兵衛が中心となって刊行していた吉原細見『這婥観玉盤』の卸し、小売りを始めた[10][2][11]。吉原細見とは吉原に点在する妓楼やそこに所属する遊女のランク付け、芸者引手茶屋などを記した略地図などが掲載された、現代で言う風俗情報誌で、春秋の年2回刊行されていた[8]。安永3年(1774年)の正月に鱗形屋が刊行した吉原細見『細見嗚呼御江戸』内の刊記に初めて「蔦屋重三郎」の名が確認できる[12]。『細見嗚呼御江戸』の序文は福内鬼外と号した平賀源内が担当しており、重三郎と源内の間で何らかの関係性があったと指摘する研究者も存在する[12]

さらに同年7月には版元として初めての出版物となる北尾重政を絵師に起用した『一目千本』を刊行した[13][11]。『一目千本』は遊女の名を列記した生け花を相撲の東西取組に見立てて競う趣向の遊女評判記で[注釈 1]、安永4年(1775年)秋の『籬の花』巻末には「君たちの生たまひしゐけ入の図をせううつしにいたし」という広告が掲載されている[13]。『一目千本』に続いて安永4年(1775年)の吉原俄に合わせて刊行された『急戯花の名寄』は、遊女の箱提灯に桜の花をあしらった挿絵とともに当該遊女の評を記した評判記で、吉原俄を見物に来た客の購買需要を見込んで刊行されたものと考えられている[14]。重三郎は出版業そのものに関心を置いていたとみられ、鱗形屋が重版事件によって処罰され、吉原細見の刊行が困難となった安永4年(1775年)の秋からは、自ら『籬の花』と題した吉原細見の刊行を始めた[8]。生まれも育ちも吉原だった重三郎が刊行する吉原細見は他の追随を許さない充実度を誇り、「蔦屋」の版元としての地位を確固たるものに押し上げた[15]

『雛形若菜の初模様』「たまや内 しづか」(1775年、礒田湖龍斎画、ボストン美術館所蔵)。
右下に「耕書堂」の版元印が確認できる[16]

安永4年(1775年)には老舗の版元西村屋与八と共同で礒田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』シリーズを刊行し、大判錦絵での遊女絵の先駆けとなった[17]。掲載される遊女の多くは突き出し(デビュー)などの記念行事に合わせて選定されたと考証されており、出版業界と吉原内部の動向を知る重三郎が橋渡し的な活動を見せたものとされている[17]。高価な紅の絵の具が多様されている華やかな作品に仕上がっており、吉原遊郭が出版費用を提供した入銀物であった可能性が指摘されている[16]。『雛形若菜の初模様』は天明初期までに140図を超える作品が刊行された人気シリーズとなったが、重三郎が関わったのは主に安永4年前半の12図のみであり、これは両版元の関係悪化によって重三郎の手を離れたものと考えられている[17]

安永5年(1776年)に入ると、山崎屋金兵衛と組んで北尾重政と勝川春章を起用した彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行した[注釈 2][13]。『青楼美人合姿鏡』は吉原の13の妓楼で名をはせた68人の遊女の姿を、四季の移ろいをテーマに色鮮やかに描いた入銀物で、序文を重三郎自身が手掛けていることから、企画の発案や主導は彼が行ったとみられている[19]。また、鱗形屋が手掛けた恋川春町の『金々先生榮花夢』をはじめとした黄表紙戯作本が流行したことに刺激を受けたと見られ、安永6年(1777年)からは戯作本、安永9年(1780年)からは黄表紙の刊行にも着手するようになった[20]。この時期に刊行を手掛けた作品としては洒落本『娼妃地理記』(道蛇楼麻阿[注釈 3]、安永6年)、黄表紙『伊達模様見立蓬萊』(作者不明、安永9年)、『身貌大通神畧縁記』(志水燕十作、喜多川歌麿画、安永10年)などがある[20]。特に『身貌大通神畧縁記』の作画を手掛けた歌麿は、大成前の北川豊章を名乗っていた時代であり、重三郎と組んでの仕事は大きな転機となった[20]。さらには浄瑠璃富本節をまとめた富本正本の刊行にも着手し、蔦屋の基幹出版物として人気を博した[22]。天明3年(1783年)1月に入ると、鱗形屋の吉原細見株を買収し、『五葉松』という名で新たな吉原細見を刊行するようになった[23]。その他、恋川春町や朋誠堂喜三二、志水燕十、四方赤良(大田南畝)、雲楽山人唐来三和などを起用した黄表紙や洒落本狂歌本の作品が刊行され、蔦屋重三郎は一線級の版元として認知されるようになった[24]。文学研究者の鈴木俊幸は、この年に豪華な顔ぶれを揃えて正月新版を大々的に喧伝した背景には、同年の日本橋進出を視野に入れた事前宣伝の狙いがあったのではないかと指摘している[25]

日本橋時代

蔦屋を示す「富士山形に蔦の葉」

日本橋 通油町 とおりあぶらちょうは、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心と言える地域であった[26]。吉原において版元としての地盤を確固たるものとした重三郎は天明3年(1783年)9月、丸屋小兵衛の店を買い上げ、この地に進出した[2][26]。重三郎は転居のタイミングで丸屋が所持していた地本問屋の株も入手した[27]。吉原の店を手代の徳二郎に任せ、重三郎は実父母も招き、通油町の耕書堂が本拠となった[26][23]。この顛末は曲亭馬琴『近世物之本江戸作者部類』の中でも言及されており、天明年代に通油町にあった丸屋を買い取って耕書堂の本店とし、一代にして蔦屋が繁盛したと伝えており、重三郎については「世の中に吉原で遊んで財産を失う者は多いが、吉原から出てきた者で大商人として成功を収める者はなかなかいない」と評している[28]

顧ふに件の蔦重は風流もなく文字もなけれと、世才人に捷れたりけれは当時の諸才子に愛顧せられ、その資によりて刊行の冊子みな時好に称ひしかは、十余年の間に発跡して一二を争ふ地本問屋になりぬ。世に吉原に遊ひて産を破るものは多けれと吉原より出て大賈になりたるはいと得かたし。 — 『近世物之本江戸作者部類』より[29]
恋川春町作画『吉原大通会』(天明4年)。著名な狂歌師を吉原に呼び集めるというシーン。左下で硯箱を差し出しているのが蔦唐丸(重三郎)と解釈される[30]

重三郎は大田南畝との知己を得たことを契機に天明3年(1783年)より蔦唐丸と号して狂歌師としての活動も開始し、著名な狂歌師たちとの繋がりを持つようになった[31]。狂歌師の集まりである吉原連所属し、『いたみ諸白』(朱楽菅江撰、天明4年)や『狂歌百鬼夜狂』(平秩東作編、天明5年)をはじめとした複数の狂歌本に重三郎の作品が確認できる[31]。また、狂歌師らを連れて吉原で派手に遊びまわった記録も残されており、幅広い交際を持ったことが推察される[31]。こうした活動によって蔦屋の狂歌本は他の追随を許さない程のシェアを獲得し、さらに巨大な版元へと成長していった[31]

しかし、天明2年(1782年)から続く大飢饉によって世情は不安定な状況であり、これを打破するため田沼意次に代わり老中となった松平定信は、天明7年(1787年)に寛政の改革を断行した[32]。飢饉に備えて質素倹約が奨励され、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなった[32][2]。重三郎はこれを受けて朋誠堂喜三二作、喜多川行麿画の黄表紙『文武二道万石通』を翌天明8年(1788年)に上梓し、定信の改革を痛烈に風刺した[32]。馬琴の『近世物之本江戸作者部類』にはこの黄表紙が未曽有の売れ行きを見せたと記録されている[32]。その他、佐野政言田沼意知の刃傷事件を取り扱った『時代世話二挺鼓』(山東京伝、天明8年)をはじめ、『鸚鵡返文武二道』(恋川春町、寛政元年)、『天下一面鏡梅鉢』(唐来参和、寛政元年)、『奇事中洲話』(山東京伝、寛政元年)といった政治風刺を含んだ黄表紙を相次いで制作し、発禁処分の扱いを受けた[32]。こうした事態を受けて幕府は寛政2年(1790年)に問屋、版元に対して出版取締り命令を下し、出版物の表現内容や華美な着色、装飾などに対して規制を強めていった[32]

寛政3年(1791年)には山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発され[33]、京伝は手鎖50日、重三郎は重過料により身上半減の処分を受けた[2][注釈 4][注釈 5]

喜多川歌麿当時三美人』(寛政5年頃)。左からおひさ、おきた、おひな。

処罰を受けたことにより重三郎は、戯作の出版を控える方向に転換し、地本問屋だけでなく書物問屋としての出版事業の地固めを行うようになった[36]。重三郎は天明8年(1788年)頃よりいわゆる大衆向けの「地本」だけでなく、和算書や暦書、仏書、文法書、国学書といった「物之本」と呼ばれる硬派な学術書の出版を増やしていき、寛政3年(1791年)には書物問屋の株を取得し、書物問屋の組合である中通組に加入している[37]

さらに、喜多川歌麿を大々的にプロモーションし、美人画の錦絵を多数刊行し、別分野からの巻き返しを企図した[36]大首絵と呼ばれる顔を大きく捉えて半身や胸像の構図で表現する様式を美人画に初めて取り入れ、積極的に展開した[36]。歌麿は重三郎の意図を汲み取り、表情や仕草から画題となった女性の心情が思い浮かぶような、大衆の心を惹きつける作品を量産した[36]。市井で美人と評判の町娘などをモデルに採用し、特に浅草随身門脇の水茶屋「難波屋」のおきた、両国薬研堀米沢町の煎餅屋「高島長兵衛」の娘おひさ、吉原玉村屋抱えの芸者で浄瑠璃富本節の名取の富本豊雛は「寛政三美人」(または「当時三美人」)と呼ばれ、大いに流行した[36]。しかし、こうした隆盛に対し、当時の幕府は「一枚絵などに評判娘などの女の名前は入れてはいけない」といった町触れを出すなど、重三郎の動向に対して厳しい目を向けていた[38]。重三郎はこうした規制を回避するため、町娘の名を判じ絵にして刊行するなどの対策を行ったが、こうした趣向も寛政8年(1796年)には禁じられるようになった[39]。幕府の規制に対する考え方の違いなどにより重三郎と歌麿は次第に疎遠になっていき、その後の重三郎は東洲斎写楽を起用した役者絵へと傾注していくこととなる[39]

東洲斎写楽『市川蝦蔵の竹村定之進』(寛政6年)。河原崎座で上演された『恋女房染分手綱』に取材し、竹村定之進を演じる市川蝦蔵を描いている。

現代においても謎の浮世絵師として多くの美術史家が様々な考察を巡らせている東洲斎写楽は、寛政6年(1794年)5月に江戸の歌舞伎である都座桐座河原崎座に取材し、大判大首絵二十八図を携えて大々的に画壇に登場した[40]。黒雲母摺の豪華な背景に主役級だけでなく端役も含めて取りそろえたラインナップには重三郎の役者絵に対する並々ならぬ執着が垣間見える[40]。しかしこの刊行は長くは続かず、翌年正月の第4期刊行を以て写楽を起用した役者絵刊行は終了した[41]。これは、写実的に役者の特徴を描き出そうとするあまり、役者の欠点的な特徴までもが強調される作風になっていたことが役者のファンや役者自身にとって不評だったためではないかと推察されており、当時の動向を見ていた大田南畝は自著『浮世絵類考』の中で「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む。」と述べている[40]

写楽を失った重三郎は歌麿との関係修復に尽力し、不採算事業の版木を売却するなど、寛政の改革によって吹き荒れる出版界の冬の時代を乗り越えようと悪戦苦闘していたが、寛政8年(1796年)の秋ごろより体調が悪化し、伏すようになった[42]。重三郎は寛政9年(1797年)5月6日に47歳で没した[43]。死因は馬琴の『近世物之本江戸作者部類』などから脚気と伝えられている[44]。馬琴は『近世物之本江戸作者部類』の中で「惜むべし、寛政九年の夏五月脚気を患ひて身まかりぬ。享年四十八歳なり」と重三郎の死を伝え、『自撰自集』の中で「夏菊にむなしき枕見る日かな」と、主が不在となった枕に哀愁の意を込めた重三郎を悼む歌を捧げている[45]。法名は幽玄院義山日盛信士で、吉原にほど近い台東区の正法寺に葬られた[43]

馬琴に拠れば二代目蔦屋を襲名したのは日本橋周辺の版元伊賀屋勘右衛門の妻の従弟で、初代の番頭となった婿養子の勇助とされている[2][43]。二代目は書物問屋としての家業を中心に展開していたが、初代の時代から狙っていた浮世絵師葛飾北斎を起用した作品作りを本格化させていくこととなった[43]。初代没後の数年間で『男踏歌』(1798年)、『東遊』(1799年)、『東都名所一覧』(1800年)、『遠眼鏡』(1801年~1803年ごろ)、『絵本狂歌山満多山』(1804年)など、葛飾北斎の作品を立て続けに刊行している[46]。こうして重三郎が立ち上げた蔦屋は書物問屋、地本問屋として四代目(文久元年(1861年))まで続いた[2]。店舗は通油町から横山町一丁目小伝馬町二丁目浅草並木町雷門内、浅草寺中梅園院地借市右衛門と転々とし、菩提寺に残された過去帳によれば、五代目重三郎は小売のみの営業を明治初めまで続けていたとされる[47]

年表

ここに取り上げた年表で特に脚注の無い記述は 田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』の「関連年表」を参照している[48]

  • 寛延3年(1750年)1月7日、蔦屋重三郎、新吉原で誕生[49]
  • 宝暦7年(1757年・7歳)前年に実母が家を出たことにより、重三郎は喜多川氏の養子になる。
  • 安永2年(1773年・23歳)新吉原の大門口五十間道に貸本、小売りの店舗を開店する。朋誠堂喜三二の洒落本『当世風俗通』刊行。
  • 安永3年(1774年・24歳)吉原細見の改め『細見鳴呼御江戸』編纂に携わる。「蔦屋」の名で初めて北尾重政の評判記『一目千本』刊行。
  • 安永4年(1775年・25歳)洒落本『青楼花色寄』刊行。吉原細見『籬の花』の刊行が始まる。
  • 安永5年(1776年・26歳)北尾重政、勝川春章の彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』刊行。
  • 安永6年(1777年・27歳)『明月余情』『手ごとの清水』[50]『娼妃地理記』刊行。
  • 安永9年(1780年・30歳)朋誠堂喜三二の黄表紙、四方赤良の『虚言八百万八伝』などを刊行。
  • 天明元年(1781年・31歳)志水燕十の黄表紙『身貌大通神畧縁記』刊行。作画を手掛けた北川豊章が初めて歌麿を名乗る。
  • 天明3年(1783年・33歳)9月に日本橋通油町に進出し、耕書堂を開業する[26]。狂歌師としての活動を開始し、「蔦唐丸」を名乗る[26]。喜多川歌麿画の『燈籠番附 青楼夜のにしき』、四方赤良編の『通詩選笑知』刊行。吉原細見の株を独占し、『五葉松』を刊行する(序文は朋誠堂喜三二[11][51]
  • 天明4年(1784年・34歳)北尾政演画の『吉原傾城新美人合自筆鏡』、四方赤良編の『通詩選』刊行。
  • 天明5年(1785年・35歳)山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼』、洒落本『息子部屋』、狂歌集『故混馬鹿集』『狂歌百鬼夜狂』『夷歌連中双六』などを刊行。
  • 天明6年(1786年・36歳)山東京伝の洒落本『客衆肝照子』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本江戸爵』刊行。
  • 天明7年(1787年・37歳)山東京伝の洒落本『通言総籬』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本詞の花』、四方赤良編の狂歌集『狂歌才蔵集』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『古今狂歌袋』刊行。
  • 天明8年(1788年・38歳)山東京伝の洒落本『傾城觿』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本虫ゑらみ』刊行。
  • 寛政元年(1789年・39歳)喜多川歌麿画の『潮干のつと』刊行。恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』刊行[26][注釈 6]
  • 寛政2年(1790年・40歳)山東京伝の『小紋雅話』、洒落本『傾城買四十八手』刊行。
  • 寛政3年(1791年・41歳)山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発される。重三郎は身上半減の重過料が課される。
  • 寛政4年(1792年・42歳)曲亭馬琴が番頭として蔦屋で働き始める。10月、母の津与が死去[53]。この年より翌年にかけて喜多川歌麿の美人大首絵を多数刊行。戯作制作を断念し、書物問屋として学術関連の書物刊行を始める[53]
  • 寛政5年(1793年・43歳)結婚を機に曲亭馬琴が退職[53]
  • 寛政6年(1794年・44歳)この年より翌年にかけて東洲斎写楽役者絵を多数刊行。十返舎一九が蔦屋に寄宿、黄表紙『心学時計算』刊行。
  • 寛政7年(1795年・45歳)版元蔦屋重三郎として確認されている最後の錦絵(東洲斎写楽作)が刊行[40]本居宣長の随筆集『玉勝間』刊行[40]
  • 寛政9年(1797年・47歳)前年秋ごろより体調が悪化する[40]。3月危篤[54]。5月6日、脚気により死没。正法寺に葬られる[43]
  • 文久元年(1861年)蔦屋耕書堂廃業。

人物

山東京伝『吉原傾城新美人合自筆鏡』(天明4年)。吉原の裏舞台を画題に山東京伝画、太田南畝序、朱楽菅江跋で蔦屋の人脈を遺憾なく発揮して刊行した作品となった[55]

性格

重三郎の性格について、江戸後期の叢書燕石十種の『戯作者小伝』の中で喜多川雪麿の話として次のように伝えられている[56]

唐丸は頗侠気あり。故に文才ある者の若気に放蕩なるをも荷担して、又食客となして財を散ずるを厭はざれば、是がために身をたて名をなせし人々あり。蜀山老翁うた麿馬琴抔其中也。又己が名をあらはれたるも其人によりてなりとぞ。 — 『戯作者小伝』より[57]

これは絵師や作家などとパトロン型の付き合いを行っていたことを示しており、重三郎は才能に目を付けた場合は投資を惜しまない性格であったと言える[58]。具体的には喜多川歌麿十返舎一九などが該当し、食客として自身の店で衣食住を世話した記録が残されている[58]。美術史家の松木寛は、自著の中で伝統的な版元であった西村屋与八と重三郎の、芸術家との付き合い方の違いを指摘している[59]。西村屋がその版元の権威と影響力を最大限に行使し、ともすれば殿様商売とも言えるような強気の姿勢で経営を行っていたのに対し[56]、重三郎は低姿勢で恩と縁を巧みに活用して経営を行っていた[58]。こうした交際に強い力を発揮したのが生来より強いコネクションのあった「吉原」で、重三郎は多数の芸術家、知識人と吉原で遊んだという記録が残されている[58]。松木はこうした「恩人」である重三郎の依頼を最大限に制作に転化したことで、蔦屋の出版物に秀作が多いという結果に繋がったのではないかと推論している[58]

狂歌師の石川雅望は重三郎のことを「秀れた気性をもち、度量が大きく細かいことにこだわらず、人に対しては信義を尊重する。」と評価している[60]。歌麿や写楽の才能を発掘したり、南畝や京伝の傑作を生む下地を作るなど、文学や絵画に対する理解力は人並み以上に優れていたといえる[60]

北尾重政『絵本吾妻抉』(寛政9年)。恵比寿に祈願する重三郎とその妻子。

家族

重三郎の出生について記した資料は先に述べた通り、石川雅望の『喜多川柯理墓碣銘』や大田南畝が浅草正法寺に建てた実母顕彰碑文であるが、どちらも震災や戦災の影響で実物は失われている[61]。しかし、江戸後期の儒者である原念斎が著した『史氏備考』に『喜多川柯理墓碣銘』が転写されていたことから、その記述をもとに研究が進められた[62]

これらの記述から、父親は尾張から江戸へ出てきた丸山重助、母は江戸に住む広瀬津与とされている[6]。兄弟があったかどうかについては不明となっている[6]。その後重三郎は喜多川氏へ養子へ行くことになるが、後年、日本橋通油町に進出した後に父母を迎え入れていることから、良好な親子関係であったことが推察される[60]。母の津与は教育熱心であったとされ、大田南畝の碑文には母の教育により強い意志を持ったことが重三郎の成功の一因だったと記されている[63]。なお、重三郎の養子先の喜多川氏(蔦屋)については、どのような商いを行っていたかは明らかではなく、養父については吉原仲之町の茶屋「蔦屋利兵衛」や吉原江戸町二丁目の「蔦屋理右衛門」などの説が推察されているが、確証には至っていない[60][63]

また、重三郎自身に妻子がいたかどうかついての詳細はわかっていない[64]。二代目を継いだ番頭の勇助が養子になったとみられる[47]。歴史学者安藤優一郎の書籍には、重三郎の死に際に別れの言葉を交わしたこと、文政8年(1825年)に妻が死去したことが記されており[65]、正法寺の過去帳に記された「錬心妙貞日義信女 文政8年10月11日」が重三郎の妻にあたると見られている[47]

『吾妻曲狂歌文庫』より四方赤良朱楽菅江

主要関係人物

狂歌師

  • 四方赤良
大田南畝、杏花園、四方山人、蜀山人などと号した狂歌師、戯作者で、蔦屋からは『狂歌狂文 老莱子』『狂歌新玉集』『狂歌才蔵集』を始め多数の狂歌本、黄表紙を刊行したほか、序文や跋文を寄せるなど幅広い活躍を見せた[31]。その他、蔦屋の墓碑に撰文を寄稿するなど、深い関係性がうかがえる[31]内山椿軒門下で、唐衣橘洲、朱楽菅江らとともに天明狂歌三大家と称された[66]
酔竹庵と号した四方赤良の同門で、四谷連の中心人物として活躍した狂歌師[66]。蔦屋からは『俳優風』『狂歌初心抄』『狂歌部領使』などの撰者として記録されている[66]
准南堂、貫立、朱楽館などとも号した朱楽連を率いた内山椿軒門下の狂歌師で、洒落本の刊行も行っている[66]。蔦屋からは『鸚鵡盃』『潮干のつと』を始め多数の狂歌本、狂詩本、洒落本を刊行している他、序跋寄稿も多く残されている[66]
  • 宿屋飯盛
石川雅望、六樹園、五老斎などと号した狂歌師、戯作者で、蔦屋からは『吾妻曲狂歌文庫』『古今狂歌袋』『絵本虫ゑらみ』『龢謌夷』などを刊行している[66]
恋川春町に師事して黄表紙などを制作していたが、四方赤良に習い狂歌師として四方連を率いた狂歌師で、蔦屋からは『狂歌網雑魚』『狂歌才蔵集』『狂歌部領使』などに撰者として参加している[66]
『吾妻曲狂歌文庫』より恋川春町(酒上不埒は狂歌師名)。

戯作者

  • 朋誠堂喜三二
久保田藩江戸留守居役平沢常富の号で、他に手柄岡持、気三次、道陀楼、韓長齢などと号した[67]。安永以降、蔦屋から多数の黄表紙を刊行し、恋川春町とともに蔦屋の双璧と称されたが、天明8年に刊行した『文武二道万石通』が絶版となったことで藩主の命により筆を断った[67]
鱗形屋孫兵衛の刊行した黄表紙『金々先生栄華夢』で一躍人気となり、黄表紙というジャンルを開拓した戯作者で、挿絵や狂歌も嗜んだ[67]。他に寿山人、寿亭などとも号し、多数の黄表紙を蔦屋から刊行したが、寛政元年の『鸚鵡返文武二道』が寛政の改革を風刺したとして発禁となり幕府から呼び出しを受けるも応じず、死没した[67]
北尾政演と号して浮世絵の制作も手掛けた戯作者で、蔦屋からは多数の黄表紙、洒落本を刊行し、『江戸生浮気樺焼』『息子部屋』『総籬』などがその代表作として知られる[67]。寛政3年に刊行した『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』などが摘発され、手鎖五十日の刑に処されたが、その後も活発な制作活動を続けた[67]
武士の出であったが放浪の身となり、後に重三郎の義弟になったとされる戯作者[68]。他に唐来山人、唐来参人、伊豆亭などとも号したほか、四方赤良の門人となり質草少々として狂歌も嗜んだ[68]志水燕十と同一人物とする説もある[68]。『通神孔釈 三教色』を蔦屋から刊行して以降、寛政末まで多数の黄表紙を刊行した[68]
10歳で滝沢家を継いで浪々としていたが、山東京伝に弟子入り後、重三郎に認められて蔦屋の番頭になった[68]。蔦屋退職後から本格的に戯作者として活動を開始し、黄表紙などを刊行した[68]。他に蓑笠翁、信天翁、大栄山人、著作堂主人などとも号した[68]。文化年間に発表した読本『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などで大家として名を成した[68]
素性は諸説あり定かではないが、『初役金烏帽子魚』で京伝の黄表紙に挿絵を描くなどしている他、『心学旹計草』『新鋳小判𫆓』『奇妙頂礼胎錫杖』などを蔦屋から刊行しており、この頃から蔦屋に寄宿していたとみられる[68]。享和2年から刊行を始めた『東海道中膝栗毛』で名が知られるようになった[69]
鳥文斎栄之による『喜多川歌麿肖像』(1815年)。

浮世絵師

鳥山石燕に師事した浮世絵師で、豊章と号して役者絵などを描いていたが、蔦屋で『身貌大通神畧縁記』に挿絵を描いて以降、歌麿と改号した[70]。天明3年ごろより蔦屋に寄宿していたとみられ、一時期は蔦屋の専属絵師として多数の挿絵や錦絵を制作していた[70]。寛政3年ごろより制作しはじめた美人大首絵によって美人画家の第一人者と目されるようになった[70]
寛政6年5月から翌1月にかけて149作品もの役者絵を蔦屋から一気刊行した浮世絵師であるが、その伝歴は不明なままとなっている[70]
独学で浮世絵を学んだ絵師で、蔦屋最初の刊行本『一目千本』を出すなど、蔦屋との関係は深く、北尾一派で多数の作品を刊行している[70]
北尾重政の門人であり、鍬形蕙斎の名でも知られる浮世絵師で、寛政6年まで毎年多数の黄表紙の挿絵を担当した[70]
北尾重政の門人であり、石川雅望に師事して狂歌も嗜んだ浮世絵師である[71]。蔦屋では黄表紙や狂歌本の挿絵を担当したほか、錦絵『六玉川』を制作した[71]

評価と影響

多数の作家、絵師を世に送り出し、後世に残る作品を数多く刊行した重三郎について、文学研究者の鈴木俊幸は「当時を代表する錦絵や草紙類を世に出したというだけではなく、文芸の史的展開に深く関与したという点でも注目すべき板元」であると評している[4]。一方で商人として見た場合は個々の事業における具体的な売り上げが不透明である点などから評価をつけることは困難であると指摘している[72]

また、歴史学者の渡邊大門は、「多くの戯作者や絵師らとの交流を通して、稀代のプロデューサーとなった」と評し、庶民に飽きられないよう流行の最先端を追い求め、新しいもの、おもしろいものに積極的に飛びつき、形にしていった人物であるとしている[73]。美術史家の狩野博幸は、須原屋市兵衛と並ぶ江戸を代表する版元であったと評したうえで、天明後期から寛政中期の江戸文化界を席巻したと賞賛している[5]。浮世絵研究者の小林忠は、歌麿や写楽、馬琴、十返舎一九といった多くの逸材を世に送り出し、時代の嗜好を適切に読み取る企画力を持った版元であったとし、その実績は幕府が出版統制の見せしめとして槍玉にあげるほどであったと評している[74]。同じく浮世絵研究者の田辺昌子は、同じような仕事を行った版元が多数いたが、当時も今も蔦屋重三郎ほど注目を集めた版元はいないと断言したうえで、他の版元との違いについて指摘している[75]

その他、作家の増田晶文は重三郎について「彼ほどカタカナ業種がぴったりくる江戸人は珍しい」と評したうえでその能力を現代の職業に転換し、パブリッシャーエディタープランナースカウトマンなどを兼務した「江戸のメディア王」であると評している[76]。重三郎を主役としたNHKの大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』や主要人物として描かれる映画『HOKUSAI』で時代考証に携わった歴史作家の山村竜也は、江戸時代に流行した黄表紙を漫画の元祖であるとし、盛り上がりを見せる出版界に彗星のごとく登場し、先頭に立って牽引した人物が重三郎であると評している[77]。日本人であるなら知らない者はいないほど著名な歌麿と写楽という巨匠を世に送り出したことが重三郎の最大の功績であるとし、江戸文化史において欠くことのできない人物の一人であるとした[78]

主要刊行作品

ここに取り上げた作品で特に脚注の無い記述は太田記念美術館『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』の「耕書堂・蔦屋重三郎版本総目録(未定稿)安永3年~寛政10年迄」を参照している[79]

版本

吉原細見
黄表紙
狂歌本
洒落本
噺本

浮世絵

絵本
大判錦絵
  • 『雛形若菜の初模様』(安永4年、礒田湖龍斎画、西村屋との共同出版)[81]
  • 『青楼仁和嘉女芸者部』(天明3年、喜多川歌麿画)[82]
  • 『三保の松原道中』(天明7-8年頃、喜多川歌麿画)[83]
  • 『三囲参詣の往来』(天明7-8年頃、鳥居清長画)[84]
  • 『六玉川』(天明末年-寛政3年頃、窪俊満画)[85]
  • 『扇屋内』(寛政3年、喜多川歌麿画)[86]
  • 『婦人相学十躰』(寛政4-5年頃、喜多川歌麿画)[87]
  • 『婦女人相十品』(寛政4-5年頃、喜多川歌麿画)[88]
  • 『当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ』(寛政4-5年頃、喜多川歌麿画)[89]
  • 『井筒中居かん、藝子あふきやふせや』(寛政4-5年頃、栄松斎長喜画)[90]
  • 『六玉川』(寛政5年、喜多川歌麿画)[88]
  • 『高級遊女集』(寛政5年、喜多川歌麿画)[88]
  • 『高島おひさ』(寛政5年頃、喜多川歌麿画)[91]
  • 『難波屋おきた』(寛政5年頃、喜多川歌麿画)[88]
  • 『四季の美人』(寛政5年頃、栄松斎長喜画)[92]
  • 『難波屋の店先』(寛政5年頃、栄松斎長喜画)[93]
  • 『三代目市川高麗蔵 三代目坂田半五郎 初代中山富三郎』(寛政5年頃、勝川春英画)[94]
  • 『歌撰恋之部』(寛政5-6年頃、喜多川歌麿画)[95][96]
  • 『遊女三幅対』(寛政5-6年頃、喜多川歌麿画)[97]
  • 『当世踊子揃』(寛政5-6年頃、喜多川歌麿画)[96]
  • 『市川蝦蔵の竹村定之進』(寛政6年、東洲斎写楽画)[40]
  • 『初代市川男女蔵の奴一平』(寛政6年、東洲斎写楽画)[98]
  • 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』(寛政6年、東洲斎写楽画)[99]
  • 『三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ』(寛政6年、東洲斎写楽画)[100]
  • 『中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の舟宿かな川やの権』(寛政6年、東洲斎写楽画)[101]
  • 『四代目松本幸四郎の新口村孫右衛門と初代中山富三郎の傾城梅川』(寛政6年、東洲斎写楽画)[102]
  • 『初代中山富三郎の宮城野』(寛政6年、東洲斎写楽画)[103]
  • 『役者舞台之姿絵』(寛政6年、歌川豊国画)[104]
  • 『青楼十二時』(寛政6年頃、喜多川歌麿画)[105]
  • 『名取酒六家選』(寛政6年頃、喜多川歌麿画)[106]
  • 『袖が浦の亀吉』(寛政6-7年頃、喜多川歌麿画)[107]
  • 『高輪の女』(寛政6-7年頃、喜多川歌麿画)[107]
  • 『霞織娘雛形』(寛政6-7年頃、喜多川歌麿画)[107]
中判錦絵
  • 『幼童云此奴和日本』(寛政3年頃、鳥居清長画)[108]
小判錦絵
  • 『仁和嘉狂言』(寛政3年、勝川春朗画)[109]
細判錦絵
  • 『三代目坂田半五郎の旅僧 実は鎮西八郎為朝』(寛政3年、勝川春朗画)[110]
  • 『三代目市川八百蔵の八幡太郎義家』(寛政6年、東洲斎写楽画)[93]
  • 『三代目沢村宗十郎の曽我の十郎祐成』(寛政6年、東洲斎写楽画)[93]
  • 『二代目中村仲蔵の荒牧耳四郎』(寛政6年、東洲斎写楽画)[111]
  • 『三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ』(寛政6年、東洲斎写楽画)[112]
  • 『市川鰕蔵の日本廻国の修行者良山』(寛政6年、東洲斎写楽画)[113]
間判錦絵
  • 『近江屋錦車 初代中山富三郎のさざなみ辰五郎女房おひさ』(寛政6年、東洲斎写楽画)[103]
  • 『吉原仁和嘉』(寛政7年、喜多川歌麿画)[107]
  • 『風俗浮世八景』(寛政7年頃、喜多川歌麿画)[114]
  • 『婦人職人分類』(寛政7年頃、喜多川歌麿画)[115]
小奉書全紙判錦絵
  • 『新吉原仮宅両国之図』(天明4年、喜多川歌麿画)[116]

蔦屋重三郎を主題とした作品

蔦屋重三郎を主題とした作品について記述する。

小説
映画
  • 写楽』(1995年、監督:篠田正浩、演:フランキー堺) ※写楽研究家として知られるフランキー堺が企画総指揮と脚色(堺正俊名義)をし自ら蔦屋重三郎も演じた[118]
テレビドラマ
舞台演劇
漫画

関連項目

正法寺にある蔦重の墓碑。
  • 正法寺 - 蔦屋重三郎の菩提寺東京都台東区正法寺には、重三郎が埋葬されたところであり、かつて墓があったことから今は重三郎を顕彰する墓碑、「喜多川柯理墓碣銘」と「通油町 蔦屋」の墓碑がある[127]
  • C.C.C. - 書店・レンタルビデオ大手『TSUTAYA』の運営企業。C.C.C.の公式サイトでは「蔦屋重三郎はTSUTAYAの由来でもある」としているが[128]、NHKのインタビューにおいて創業者の増田宗昭は、1983年創業時には蔦屋重三郎について認知しておらず、祖父の副業であった置屋の屋号『蔦屋』に肖って付けたものだったと述べている[129]
  • 日本橋大伝馬町 - 現在の東京都中央区日本橋大伝馬町の東側の旧日本橋大伝馬町3丁目が江戸期に蔦屋重三郎が耕書堂を構えていた江戸日本橋通油町に該当する。現在は『蔦屋重三郎「耕書堂」跡』の立て看板のみ存在する。[130]

脚注

注釈

  1. ^ 太田記念美術館『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』では吉原細見としている[11]
  2. ^ これは、蔦屋が吉原細見の版権しか所持していなかったこと、山崎屋と取引のある彫師や摺師との縁を設けることを目的としていたためと指摘されている[18]
  3. ^ 秋田佐竹氏の領藩である久保田藩の居留守役平沢常富で、朋誠堂喜三二や道蛇楼麻阿といった号で戯作者として活動した[21]
  4. ^ 倉本初夫は江戸の刑法に基づいて検証を試み、財産の半分を没収されたとする通説を否定し、『山東京伝一代記』にある「身上に応じ重過料」[34]を支持して、営業に差し支えるほどの罰金額ではなかったと述べている。また、中嶋修は、財産の半分を没収されたことを裏づける当時の記録が見つからないとした上で、この説を宮武外骨の著作『筆禍史』[35]1911年)以降に広まったものだと考証している。蔦屋の罰金額の基準を「身代(全財産)」とする同時代史料は見つかっておらず、正しくは「身上(年収)」である。
  5. ^ 佐藤至子『滑稽洒落第一の作者山東京伝』では、本文中では「当該書の絶版と重過料の処分を受けた」と説明されており、『伊波伝毛乃記』『江戸作者部類』の「身上半減の闕処」とする記述は異説という扱いである。
  6. ^ 発禁処分を受けて出頭命令を受けたが、恋川春町は病気と称し、拒否したまま死亡した[52]。自殺と考察されている[52]
  7. ^ 『五葉松』とも[23]
  8. ^ 正月刊行のため正確には安永10年[20]
  9. ^ (田辺2024)の記述から評判記として分類した[13]。太田記念美術館『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』では吉原細見としている[50]
  10. ^ 東洲斎写楽の名がタイトルとなっているが、蔦屋重三郎が主人公の作品[117]

出典

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参考文献

外部リンク


蔦屋重三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 00:09 UTC 版)

だましゑ歌麿」の記事における「蔦屋重三郎」の解説

江戸一番の版元歌麿より3,4年上禁令の裏を掻くような京伝の作品出版し身代半減過料を受ける。

※この「蔦屋重三郎」の解説は、「だましゑ歌麿」の解説の一部です。
「蔦屋重三郎」を含む「だましゑ歌麿」の記事については、「だましゑ歌麿」の概要を参照ください。

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