須原屋市兵衛とは? わかりやすく解説

須原屋市兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 03:04 UTC 版)

須原屋 市兵衛(すはらや いちべえ)は、江戸時代版元(出版人)である。江戸出版業界の最大手須原屋茂兵衛暖簾分け店の一つ。号は申椒堂(しんしょうどう)。平賀源内森島中良杉田玄白蘭学者の版元として、当時として革新的な書物を多く手がけた個性派として知られる。宝暦から文化年間に活動した。日本橋室町三丁目、同二丁目、日本橋本石町四丁目、安永3年(1774年)に日本橋本町二丁目、安永4年(1775年)に日本橋北室町3丁目西側と拠点を点々とした。平秩東作の嫡子桃次郎が奉公した[1]

概要

『物類品隲』。1763宝暦13)年刊。平賀源内著。国立科学博物館の展示。

活動は日本橋室町三丁目における宝暦12年(1762年)の建部綾足著『寒葉斎画譜』の刊行に始まる。宝暦13年(1763年)には平賀源内著『物類品隲』の版元となり、源内やその周辺の蘭学者の書を多く手がけた。安永3年(1774年)には幕府の弾圧を恐れながらも『解体新書』を刊行する。寛政4年(1792年5月16日林子平著『三国通覧図説』が幕府に見咎められ、絶版になり版木没収及び重過料に課された。文化3年(1806年)の文化の大火で被災し、土蔵を持たなかったため大きな打撃を受けた[2]。文化4年(1807年)の『由利稚野居鷹』、文化5年の『三七全伝南柯夢』(曲亭馬琴)を最後に単独出版が途絶え、文化8年(1811年)に二代目が死去してからは共同出版のみに携わった[3]文政期には経営が茂兵衛に委ねられ、三代目の死後、遂に休株となった[2]。墓所は浅草の善龍寺。

歴代

  1. 須原屋市兵衛(? - 安永8年(1779年5月6日
  2. 須原屋市兵衛宗和(? -文化8年(1811年6月9日
  3. 須原屋市兵衛和文(? - 文政6年(1823年8月9日

主な有名刊行物

関連作品

テレビドラマ

参考文献

脚注

  1. ^ 森銑三『平秩東作の生涯』
  2. ^ a b 松田泰代「『重訂解体新書』の出版に関する一つの考察
  3. ^ 松田泰代「蔵版目録の分析による刷年代識別法--書肆須原屋市兵衛の蔵版目録を事例として

関連項目





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