蔦屋と梅屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 05:38 UTC 版)
「蔦屋」は、平左衛門を主人とした江戸時代から続く旅館であったが、1890年(明治23年)に横浜真金町の酒商・沢田武治(武司、武とも)に売却された。元飯野藩藩士の沢田は、戊辰戦争の戦後処理のため切腹を命じられた家老の介錯人を藩主の保科正益の命により務めた人物で(息子の嫁は正益の娘)、妻のきくを女将に旅館業を営む傍ら、医療のなかった底倉に医師を呼び、富士屋ホテルの山口仙之助とともに函嶺(かんれい)医院を開設した(2014年現在、この医院の大正時代の建物を利用した日帰り湯がある)。 武司の息子・鋓義は高等師範を出て博物学の教師となり、宿の裏山に数千坪に渡り高山植物を植え、「高山園」として公開したほか、旧蹟を後世に伝えるため、箱根の諸所に石碑を建てた。また、当時としては珍しく、小学校教師を招いて女中たちに教育を授けたり、30ページもある温泉案内の冊子を客用に用意したりした。その息子・沢田武太郎(1896-1938年)は植物学研究者となり、シーボルトが命名したオタクサがお滝さんから来ていると指摘した人物として知られる。武太郎の植物分類学を主体とした蔵書は「沢田文庫」として神奈川県立博物館に所蔵されている。沢田家による蔦屋は昭和末期まで続いたが、その後は経営者が変わっている。 「梅屋」は底倉を代表する老舗の人気旅館として栄えたが、1962年に閉館した。主人の鈴木牧太郎は、明治中期には強羅一帯の土地も所有していた。明治末期に書かれた本によると、主人の方針で、視察のため仲居を他の旅館に投宿させて女中学の勉強をさせていたという。1888年(明治21年)には森有礼が家族と、1901年(明治34年)には、谷崎潤一郎が修学旅行で宿泊している。ほかにも伊藤博文、近松秋江など多くの著名人に愛された。
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