土山宗次郎とは? わかりやすく解説

土山宗次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 10:01 UTC 版)

 
土山宗次郎
時代 江戸時代中期
生誕 元文5年(1740年
死没 天明7年12月5日1788年1月12日
別名 孝之、藤次郎、軽少ならん(狂名)
幕府 江戸幕府 勘定組頭
主君 徳川家重家治家斉
父母 父:土山孝祖、母:土山照苗の娘
兄弟 宗次郎、堀利之の妻、長滝政央
日下部七十郎の娘
女子
養女:柳田政武の妻
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土山 宗次郎(つちやま そうじろう)は江戸時代中期の旗本。名は孝之(たかゆき)。

生涯

土山孝祖の子として誕生、母は土山照苗の娘。妻は日下部七十郎の娘。

田沼意次老中となって田沼時代が始まると、安永5年(1776年)に勘定組頭に登用された。天明3年(1783年)に工藤平助の『赤蝦夷風説考』を読んで対ロシア政策の必要性を提言し、天明4年(1784年)に平秩東作と荒井庄十郎に蝦夷地調査をさせ[注釈 1]、さらに天明5年(1785年)には上役の松本秀持が青島政教を始め、山口高品、菴原宣方、佐藤行信、皆川秀道、里見平蔵、引佐新兵衛、大塚小一郎、大石逸平、鈴木清七、最上徳内らに蝦夷地調査を行わせた[1]

その一方で、吉原・大文字屋の遊女誰袖(たがそで)を祝儀などを含めると1200両を払い身請けしたことで派手な生活ぶりが評判となり、親交のあった大田南畝から、狂歌で「我恋は天水桶の水なれや。屋根よりたかきうき名にぞ立つ」と詠まれた[2]

天明6年(1786年)8月に第10代将軍・徳川家治が死去すると、台頭した松平定信ら反田沼派が老中・田沼意次を罷免する。同年11月に富士見御宝蔵番頭となる。その後、買米金500両の横領が発覚し、その追及を逃れるため逐電し、武蔵国所沢山口観音に平秩東作が匿ったが発見され、天明7年(1787年)12月5日に斬首されている。

官歴

脚注

注釈

  1. ^ 文人で戯作者でもある平秩東作は、1783年から翌年まで江差に逗留して蝦夷地のようすを見聞し、『東遊記』を著した[1]

出典

参考文献

関連項目





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