蝦夷地開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:56 UTC 版)
松本秀持の蝦夷地政策で蝦夷地を開発し金銀銅山を開き、産出した金銀でロシアと交易し利益を得ようという試みがあった。 この数十年、ロシアは日本との交易を望んでいたので、これを放置していては密貿易が盛んになると危惧していた。そこで公式に貿易を認めれば、ロシアは食料がほしいので、俵物だけでも交易になるので利益になるだろうと考えた。蝦夷地の金銀銅山を開発しロシア交易にあてれば長崎貿易も盛んになると試算した。 田沼は、蝦夷地を調べるために幕府メンバーには、青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六などがいた。また、蝦夷地の調査開発をすすめる事務方には、勘定奉行松本秀持、勘定組頭土山宗次郎などがいた。蝦夷地調査で鉱山開発やロシア交易の実現性を調べ、蝦夷地開発の可否を決定することとなった。調査隊は4月29日、松前をたち、東から国後、西から択捉の二隊に分かれて進んだ。翌、天明6年2月、佐藤玄六郎による調査報告があがった。調査の結果、危惧していたのと違い、ロシアとの間の密貿易は交易といえるほどの規模のものは存在しなかった。ロシアは日本と交易をしたがっているので正式に交易を始めればかなりの規模になるだろうが、外国製品は長崎貿易で十分入手できている現状、無理にロシア交易を始めても長崎貿易に支障をきたすことになり、そのうえいくら禁止しても金銀銅が流出することになる。結果、最終的に田沼は蝦夷の鉱山開発、ロシア交易を放棄した。 蝦夷地の鉱山開発・ロシア交易の構想が頓挫したことで、松本秀持は新田開発案に転換した。松本秀持は農地開発の為、アイヌを3万に穢多、非人を7万人移住させ、新田開発が進んで農民が増えれば、商人たちも増え人口を増える。さらに異国との通路を締め切り、日本の威光によりロシア、満州、山丹までもが日本に服属し永久の安全保障となる。蝦夷地が開発されれば、奥羽両国も中国地方のような良い国柄になる。新田開発もあまり時間をかけず、人口の増加も八、九年で実現できるとの非現実的な構想を書いている。田沼失脚後、蝦夷地開発をいったん中止となった。しかし、この政策は老中を含む幕府の大多数に支持されていた。開拓反対派である松平定信も早急での開拓に反対しているだけで将来的な蝦夷の開拓自体は肯定派だった。その後、定信が失脚した後の寛政11年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄とし中止されていた蝦夷地開発を開始した。文化4年(1807)には松前から領地を取り上げ全蝦夷地を直轄した。田沼が提唱した幕府による蝦夷開発計画はその後は紆余曲折はあったものの文政4年(1821)に中止されるまで継続していくこととなる。
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