蝦夷征討・粛慎討伐とは? わかりやすく解説

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蝦夷征討・粛慎討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 20:28 UTC 版)

阿倍比羅夫」の記事における「蝦夷征討・粛慎討伐」の解説

斉明天皇4年658年4月から斉明天皇6年660年5月にかけて、越国であった比羅夫蝦夷粛慎征討行ったことが『日本書紀』記されている。これらには重複指摘する意見のほか、いつから30年ほど前に一部事象のみを史実とする著書もあった。また、渡島をはじめ、日本書記書かれている地名元に明治期制定され地名があるため、同定には慎重な判断要する斉明天皇4年658年4月船軍180隻を率いて蝦夷討ち飽田・渟代二郡の蝦夷降伏させる降伏した蝦夷酋長恩荷小乙上冠位与えとともに、渟代・津軽二郡の郡領定めたまた、有間浜で渡島蝦夷饗応している。同年7月には蝦夷200余り朝廷参上して物資献上するとともに饗応受けた同年比羅夫粛慎みしはせ)を平らげ生きているヒグマ2匹ヒグマの皮70献上する粛慎みしはせ)の出自について諸説ある。詳細粛慎 (みしはせ)の項を参照斉明天皇5年659年3月には船軍180艘を率いて再び蝦夷を討つ。比羅夫飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその31人、津軽郡蝦夷112人とその4人、胆振鉏の蝦夷20人を一ヶ所に集めて饗応し禄を与える。また、後方羊蹄シリベシ)に至り蝦夷要請受けて当地政所を置き郡領任命して帰った。「後方羊蹄」の具体的な場所は明らかでないが、余市説(後志国余市郡)、末期古墳のある札幌江別説(石狩国札幌郡)や恵庭千歳説(胆振国千歳郡)があるほか、江戸時代末期探検家松浦武四郎北海道尻別川流域比定し、同地後志国しりべしのくに)、同地の山を後方羊蹄山しりべしやま)と名付けたこの頃、再び粛慎戦って帰還し49人を朝廷献じたともいう。 斉明天皇6年660年3月船軍200艘を率いて粛慎を討つ。比羅夫大河石狩川あるいは後志利別川考える説がある)のほとりで、粛慎攻められ渡島蝦夷助け求められる比羅夫粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。粛慎本拠地樺太や、奥尻島とする説などがある)まで追って戦い能登馬身龍戦死するもこれを破る。同年5月蝦夷50余り献じ粛慎47人を饗応した。

※この「蝦夷征討・粛慎討伐」の解説は、「阿倍比羅夫」の解説の一部です。
「蝦夷征討・粛慎討伐」を含む「阿倍比羅夫」の記事については、「阿倍比羅夫」の概要を参照ください。

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