蝦夷地直轄化と御用掛の任命
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「松平忠明 (信濃守)」の記事における「蝦夷地直轄化と御用掛の任命」の解説
寛政年間は、蝦夷地をめぐる大きな事件が相次いだ。寛政元年(1789年)にアイヌの蜂起であるクナシリ・メナシの戦いが発生、寛政4年(1792年)にはロシア使節アダム・ラクスマンが根室に来航している。江戸幕府は寛政10年(1798年)、目付渡辺胤(久蔵)、使番大河内政寿(善兵衛)、勘定吟味役三橋成方(藤右衛門)に蝦夷地の警備・経営についての調査を命じた。渡辺・大河内・三橋は蝦夷地に赴き、現地の状況を巡察して、11月半ばに江戸に戻って復命した。幕府は蝦夷地を直轄とすることとした。 寛政10年(1798年)年12月27日、松平忠明は「蝦夷地のことをうけたまはり」、渡辺胤、大河内政寿、三橋成方と議すように命じられる。忠明の力量が見込まれ、蝦夷地の責任者(蝦夷地取締御用掛)として抜擢されたものとみなされる。 寛政11年(1799年)1月16日、松平忠明に加えて勘定奉行石川忠房(左近将監)、目付羽太正養(庄左衛門)、大河内政寿、三橋成方にも同様の命令が出された。同日、松前藩主松前章広に対して東蝦夷地の向こう7年間の期限付きでの上知が命じられ、5人の蝦夷地御用掛(「五有司」)が蝦夷地経営に当たり、老中戸田氏教・若年寄立花種周が統括の任に当たることとなった。 「五有司」は、場所請負商人の横暴によってアイヌが反感を募らせる状況に対して、公正な商取引の実施とともにアイヌの「教化」と「懐柔」を行い、ロシアに備えることなどを挙げた蝦夷地経営の方針案(「蝦夷地御取締並開国之儀相含取計方申上候書付」)を作成し、上司によって採用された。
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