松平忠明 (信濃守)
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松平 忠明(まつだいら ただあきら[3][4]/ただあき[1])は、江戸時代後期の大身旗本(旗本寄合席)。信濃塩崎陣屋5000石松平家の第3代当主。豊後岡藩主中川久貞の子で、松平忠常の婿養子となる。1798年に幕府が蝦夷地を直轄化する際に蝦夷地取締御用掛の筆頭に任命され、蝦夷地の探索・調査にあたり、経営方針の策定に関わったことで知られる。その後、駿府城代に転任。官位は従五位下・信濃守。
注釈
- ^ 岡藩ではこの明和2年(1765年)4月、幼少より病身であった久貞長男の中川久賢が21歳で病死して初めて幕府にその誕生を届け出るということを行っている[8]。
- ^ 天明5年(1785年)、松平家の家督継承時に21歳[3]。
- ^ 3代藩主中川久清の七男・中川主馬久周の流れを汲む[9]。
- ^ 『寛政譜』によれば、久松松平家分家(松平定政の子・定澄にはじまる家)の旗本・松平定卓の子。『寛政譜』の松平家の譜には実名「定明」、通称「大四郎 主水」で記載され、中川求馬久敦の養子となり、のち離縁されたとある[10]。
- ^ 天明2年(1782年)10月8日に中川久敦が隠居し、久敦の実の孫(他家の養子となった久敦の子・中川図書久典の二男)にあたる久照が中川求馬家を継いだ[11]。
- ^ なお、新たに中川求馬家の継嗣となった久照が「鶴次郎」に通称を改めた(その後「求馬」に改める)[11]。
- ^ この年、岡藩では嫡子であった忠明の兄・中川久徳が、父の久貞との不和の末に廃嫡された(病気や不行跡が理由とされる)。これが原因で久貞と家老たちが対立し、ついには幕府の裁定を受ける事態が発生している[12]。もう一人の存命の兄・中川久徴(水野勝剛)も、同年に結城藩主水野家の末期養子となって中川家を出ている。
- ^ 大河内配下の近藤重蔵が最上徳内を案内人として国後島・択捉島を踏査したのはこの時である[16]。
- ^ この職は「蝦夷地御用掛」などとも呼ばれる。「故信濃守源公伝」で山梨稲川は忠明の役職を「蝦夷総宰」と記しており、これを参照した森銑三も踏襲している。
- ^ なお、幕府の直轄とされたのは当初浦河から知床にかけての地域であったが、同年8月には松前藩からの内願により知内川以東浦河までの地も編入された[19]。
- ^ このほか、渡辺胤が江戸にあって蝦夷地経営に参与した[18]。
- ^ 「亀田番所」「亀田奉行所」の名で呼ばれる松前藩の施設は、亀田と箱館にまたがって複数存在する[24]。
- ^ 八王子千人同心頭・原半左衛門の弟である原新助の手付農夫[28]。寛政12年(1800年)、八王子千人同心の同心やその子弟は、幕命によりユウフツ(現在の苫小牧市勇払付近)に入植していた[29]。
- ^ 「文化乙丑二月病、卒于駿城、時年四十七」
- ^ 「公既寝瘵、雖病、有公事、必力疾而視之……其日溘焉」
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m “松平忠明”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l “久貞公の子 駿府城代・松平忠明 死去 自殺?”. 岡の母・虎姫の会. 2022年3月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』巻第八、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.48。
- ^ “松平忠明蝦夷踏査開拓見積地図”. 信州デジタルコモンズ. 2022年4月2日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.389。
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- ^ “2年続きの台風 4男久長様 旗本松平家の聟養子に”. 岡の母・虎姫の会. 2022年3月30日閲覧。
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- ^ a b 県立長野図書館(回答). “松平信濃守忠明が蝦夷奉行羽田正養のために手を尽くして蹴鞠を入手したことが…”. レファレンス協同データベース. 2022年4月2日閲覧。
- ^ a b c “【館内限定】松平忠明蝦夷踏査開拓見積地図”. 蔵書検索・予約. 函館市中央図書館. 2022年4月2日閲覧。
- ^ a b “近世蝦夷地関係史料の調査・撮影”. 『東京大学史料編纂所報』第21号(1986年). 東京大学史料編纂所. 2022年4月2日閲覧。
- ^ “今井村上氷鉋村中氷鉋村塩崎村五千石領主松平信濃守忠明ニ関スル文書 郷土資料 ”. 蔵書検索・予約. 函館市中央図書館. 2022年4月2日閲覧。
- ^ “松平信濃守行状並遺草 ”. 蔵書検索・予約. 函館市中央図書館. 2022年4月2日閲覧。
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