中川久徳
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 延享4年3月6日(1747年4月15日)[1] 公年では延享2年(1745年)[2] |
死没 | 文化8年8月24日(1811年10月11日) |
改名 | 三郎(幼名) |
戒名 | 養徳院殿仁山了義大居士 |
官位 | 従五位下・内膳正、主計頭 |
藩 | 豊後岡藩世嗣 |
氏族 | 中川氏 |
父母 | 中川久貞 |
兄弟 | 久賢、久徳、水野勝剛、松平忠明、的丸、岩、貞、巻、充 |
妻 | 丹羽高庸娘 山本勝五郎娘 |
子 | 久遠、久持、宣 |
中川 久徳(なかがわ ひさのり)は、江戸時代中期の豊後国岡藩の世嗣。官位は従五位下・内膳正、主計頭。
略歴
8代藩主・中川久貞の次男として誕生した。兄の久賢が早世したため、岡藩嫡子となる。明和5年(1768年)徳川家治に拝謁し叙任するが、不行跡のため天明3年(1783年)に廃嫡された。代わって、長男の久遠が嫡子となる。文化8年(1811年)、67歳で没した。
系譜
脚注
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