幕府の蝦夷地政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:17 UTC 版)
「松平忠明 (信濃守)」の記事における「幕府の蝦夷地政策」の解説
寛政11年(1799年)2月には寄合村上常福(三郎右衛門)、西丸小姓組遠山景晋(金四郎)、西丸書院番組長坂高景(忠七郎)の3人が蝦夷地御用掛に追加された。江戸での事務を任せた石川・羽太を残し、忠明ら蝦夷地御用掛は蝦夷地に赴き、蝦夷地を巡察するとともに(忠明みずからも根室や標津に至った)、運上屋の会所への改編(場所請負制の廃止)や、各所への医師の配置、道路・交通の整備などの施策を行った。忠明は蝦夷地経営の拠点となる陣屋を厚岸(現在の厚岸町付近)に置くことを構想したが、交通・気候の問題に加え直轄範囲が拡大したことに伴い、協議の結果として蝦夷地取締御用掛仮役所を亀田村の旧亀田番所に置くこととした。同年冬に忠明は江戸に戻った。 忠明の蝦夷地取締御用掛在職中、寛政11年(1799年)に高田屋嘉兵衛が「蝦夷地定雇船頭」に登用されて活動を広げ、寛政12年(1800年)には伊能忠敬が最初の蝦夷地測量に赴いた。享和元年(1801年)には函館港の最初の港湾施設とされる内澗町の掘割が開削された。 寛政12年(1800年)には、皆川周太夫に蝦夷地内陸交通路の実地踏査を命じている(当時、北海道東部に赴く和人は海路や沿岸の道路を用いていた)。皆川周太夫は十勝方面から踏査を行い(現在の帯広市など、十勝地方内陸部を和人として初めて探索したという)、アブタ(虻田)―サッポロ(札幌)―シコツ(千歳)―ユウフツ(勇払)を経て、沙流川をさかのぼり、日勝峠付近で日高山脈を越え、十勝川を下って十勝河口に至る道路建設計画を立案した。下僚の一人に最上徳内がいたが、日高越えの道路開削を巡って徳内は忠明と衝突した。 享和元年(1801年)、松平忠明・石川忠房・羽太正養によって蝦夷地巡視がなされ、蝦夷地経営の基盤が整えられたことが確認された。松平忠明は西蝦夷地に赴いており、羽太正養の『休明光記』や磯谷則吉の『蝦夷道中記』に記録がある。享和2年(1802年)2月23日に松平忠明以下の蝦夷地御用掛は免じられ、新たに蝦夷奉行(のち箱館奉行)が置かれるとともに(初代奉行は戸川安論と羽太正養)、東蝦夷地の幕府永久直轄が定められた。
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