幕府の禁教政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:38 UTC 版)
豊後国のキリシタン捕縛は、長崎奉行の命で実施され、その後の処分は幕府の宗門改に報告されるという、江戸幕府の直接的介入によって行われた。 臼杵藩で寛文8年(1668年)に幕府からの命でキリシタンの取り締まりが行われ、73人の信徒が捕らえられた。同年には長崎奉行からの命で領内のキリシタン30人を捕えて入牢させている。翌9年(1669年)正月には、臼杵藩主・稲葉信通は拘禁している65人のキリシタンの住所・氏名・人柄を記した「切支丹宗門之者御預帳」と呼ばれる届書を幕府宗門改役に提出している。 岡藩では、幕府の指示をうけて寛文5年(1665年)に切支丹(宗旨)奉行を設置した。 豊後国のキリシタン摘発によって、幕府は各藩に宗門改奉行の設置を義務づけ、大名領のキリシタン禁制政策を「幕府宗門改役 ― 各藩の宗門奉行」というラインで統括することとなった。長崎奉行も、豊後国だけでなく九州全域の禁教政策に介入し、九州支配を強化していった。
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