幕府への反抗とは? わかりやすく解説

幕府への反抗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)

新田義貞」の記事における「幕府への反抗」の解説

元弘元年1331年)から始まった元弘の乱においては、義貞は大番役として在京していたが、元弘2年/正慶元年1332年)に河内国楠木正成挙兵が起こると幕府動員命令に応じて新田一族里見氏山名氏といった上野御家人とともに河内へ正成討伐向かい千早城の戦い参加している。義貞は河内金剛山の搦手攻撃参加していたが、元弘3年/正慶2年1333年3月に義貞は病気理由無断新田荘帰ってしまう。『太平記』には、元弘の乱出兵中、義貞が執事船田義昌と共に策略巡らし護良親王接触して北条氏打倒綸旨受け取っていたという経緯示している。 奥富敬之は、「護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい」、「文章体裁綸旨形式ではない」などの根拠提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨受領したことについては完全に否定はしていない山本隆志も、『太平記』の記述にある義貞宛の綸旨体裁が他の綸旨異なり創作ではないか疑義呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕促す綸旨飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨受け取っていた可能性はあると指摘している。また義貞は後醍醐天皇護良親王両者から綸旨受け取っていたとも言われる。ただし『太平記』には後醍醐天皇が義貞宛に綸旨発給した記述はなく、綸旨文章で書かれ令旨であったということになっている。 義貞が幕府反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後幕府徴税使者との衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった楠木正成討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、富裕税一種である有徳銭徴収命令した同年4月新田荘には金沢出雲介親連(幕府引付奉行北条氏得宗家の一族紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎御内人)が西隣の淵名荘から赴いた金沢黒沼は「天役」を名目として、6貫文もの軍資金をわずか5日の間という期限設けて納入迫ってきた。幕府これだけ高額軍資金短期間納入するよう要請した理由は、新田氏事実上掌握していた世良田長楽寺門前町として殷賑し、富裕な商人多かったためである。 両者行動はますます増長し譴責様相呈してきたため、義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎得宗権威笠に着て居丈高な姿勢をとることが多かったまた、黒沼氏は元々隣接する淵名荘荘官務め得宗被官世良田氏衰退後世良田宿に進出していたが、同宿掌握しつつあった新田氏本宗家との間で一種の「共生」関係に基づいて経済活動参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収長年世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であったまた、長楽寺再建完了時に幕府楠木合戦高額な軍資金要求したことは、多額再建費用負担した義貞や世良田住民にとっても許容しがたい行為であった。そのため、遂に義貞は憤激し金沢幽閉し黒沼斬り殺した黒沼の首は世良田の宿に晒された。金沢船田義昌縁者であったため助命されたと言われるが、幕府高官であったため、殺害する幕府刺激すると義貞が懸念したとも考えられている。 これに対して得宗北条高時は義貞に近い江田行義所領であった新田荘平塚郷を、挙兵した日である5月8日付で長楽寺寄進する文書発給した。これは、徴税使者殺害した義貞への報復措置であった。この文書長楽寺もたらされたのは義貞出発数日後であった考えられている。 そして、間もなく幕府新田討伐軍勢差し向けるという情報入った。義貞は得宗被官安東聖秀の姪を妻としており、彼女を経由して情報取得した推測される『太平記』巻十「新田義貞謀叛事付天狗越後勢事」の物語では、義貞は一門郎党集め評定行っていたが、幕府による新田討伐情報を得るに至って幕府との対決戦略講じるようになった最初防戦方針とした消極的な戦略練られていたが、弟・脇屋義助演説一同奮励し、積極的な戦略へと方針転換した、と描かれる

※この「幕府への反抗」の解説は、「新田義貞」の解説の一部です。
「幕府への反抗」を含む「新田義貞」の記事については、「新田義貞」の概要を参照ください。

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