幕府への反抗
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元弘元年(1331年)から始まった元弘の乱においては、義貞は大番役として在京していたが、元弘2年/正慶元年(1332年)に河内国で楠木正成の挙兵が起こると幕府の動員命令に応じて、新田一族や里見氏、山名氏といった上野御家人らとともに河内へ正成討伐に向かい、 千早城の戦いに参加している。義貞は河内金剛山の搦手の攻撃に参加していたが、元弘3年/正慶2年(1333年)3月に義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。『太平記』には、元弘の乱で出兵中、義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している。 奥富敬之は、「護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい」、「文章の体裁が綸旨の形式ではない」などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない。山本隆志も、『太平記』の記述にある義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している。また義貞は後醍醐天皇と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる。ただし『太平記』には後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はなく、綸旨の文章で書かれた令旨であったということになっている。 義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後に幕府の徴税の使者との衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった。楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した。同年4月、新田荘には金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の淵名荘から赴いた。金沢と黒沼は「天役」を名目として、6万貫文もの軍資金をわずか5日の間という期限を設けて納入を迫ってきた。幕府がこれだけ高額の軍資金を短期間で納入するよう要請した理由は、新田氏が事実上掌握していた世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである。 両者の行動はますます増長し、譴責の様相を呈してきたため、義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎は得宗の権威を笠に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。また、黒沼氏は元々隣接する淵名荘の荘官を務める得宗被官で世良田氏の衰退後に世良田宿に進出していたが、同宿を掌握しつつあった新田氏本宗家との間で一種の「共生」関係に基づいて経済活動に参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収は長年世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であった。また、長楽寺再建の完了時に幕府が楠木合戦の高額な軍資金を要求したことは、多額の再建費用を負担した義貞や世良田の住民にとっても許容しがたい行為であった。そのため、遂に義貞は憤激し、金沢を幽閉し、黒沼を斬り殺した。黒沼の首は世良田の宿に晒された。金沢は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると幕府を刺激すると義貞が懸念したとも考えられている。 これに対して、得宗・北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を、挙兵した日である5月8日付で長楽寺に寄進する文書を発給した。これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった。この文書が長楽寺にもたらされたのは義貞出発の数日後であったと考えられている。 そして、間もなく幕府が新田討伐へ軍勢を差し向けるという情報が入った。義貞は得宗被官・安東聖秀の姪を妻としており、彼女を経由して情報を取得したと推測される。 『太平記』巻十「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」の物語では、義貞は一門、郎党を集め評定を行っていたが、幕府による新田討伐の情報を得るに至って、幕府との対決の戦略を講じるようになった。最初は防戦を方針とした消極的な戦略が練られていたが、弟・脇屋義助の演説が一同を奮励し、積極的な戦略へと方針を転換した、と描かれる。
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