幕府中枢に残る公文書類
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:59 UTC 版)
次は公文書類である。それらは政所などの役所に保管されていたものもあろうが、その文を書いた事務官僚の下書きが、あるいは得宗家の寄合での決定が、政所や問注所の執事の家に伝えられて『吾妻鏡』の編纂時に利用されたと思われる。寛喜4年(1232年)12月5日条に、北条泰時が「所処に散在」してしまった大江広元時代の記録を集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったとあり、その記事自体が、長井泰秀の家に保管されていた記録が『吾妻鏡』に利用されたであろうことを物語っている。頼朝将軍記に多数見られる朝廷からの院宣などもそこに含まれていたと思われる。文治元年(1185年)12月6日条にある「院奏の折紙状」は『玉葉』が情報源とも見られていたが、平田俊春はこれを詳細に検討して、幕府政所にあった案文に拠ったのであろうと推定し、以降それが定説となっている。
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