幕府内の協議と停止の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
「薩摩藩の長崎商法」の記事における「幕府内の協議と停止の決定」の解説
久世の長崎商法停止論に対して幕閣内で反論が出された。天保7年(1836年)5月、勘定奉行の明楽茂村は、停止によって幕府と薩摩藩との関係が悪化する危険性を指摘した上で、困窮状態に陥っていた琉球を救助することが目的である薩摩藩の長崎商法を停止することは、困窮した琉球を切り捨てることとなり、それこそ日本国内のみならず諸外国に対する幕府の面目を失墜させ、権威低下を招くのではないかと憂慮した。そこで16品目のうち長崎会所貿易に影響がある5ないし6品目を差し替えるという譲歩案を提案した。 しかし明楽の反論に対し、久世は薩摩藩の長崎商法は不正の増長を繰り返してきており、やはり長崎貿易を幕府がきちんと統制できないことこそが国威を失墜すると改めて主張した上で、この機を逃せば薩摩藩の長崎商法を停止させるチャンスは訪れないであろうと、幕閣に決断を迫った。結局明楽は久世の意見に同意することになる。 老中水野忠邦は寛政の改革をモデルとして長崎会所の立て直しを図った。会所立て直しの一環として薩摩藩の長崎商法の停止が決定され、天保7年6月19日(1836年8月1日)、水野は薩摩藩主島津斉興に対して天保10年(1839年)以降の長崎商法の停止を通告した。天保6年(1835年)9月に松平康任が失脚し、長崎商法の停止通告後の天保8年(1837年)3月、大久保忠真が亡くなり、天保8年4月には将軍家斉が引退して9月には世子徳川家慶が正式に新将軍となる中で、水野忠邦が幕府の主導権を握るようになっていく。この薩摩藩の長崎商法の停止に至る経緯は、水野による幕政改革、天保の改革の路線へと繋がっていく。
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