幕府出仕
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天保2年(1831年)12月1日徳川家斉、徳川家慶に御目見し、天保3年(1832年)9月14日奥医師並、大奥御用、20人扶持。天保4年(1833年)6月27日 帯刀を許され、12月23日稟米100俵。 天保4年(1833年)松浦静山を治療し、半弓を下賜、天保5年(1834年)刀を下賜された。天保6年(1835年)6月25日、江戸の検校の上座に附くことを認められたく天保7年(1836年)2月23日火事に遭い、谷町南部坂松代藩中屋敷に仮寓し、11月11日大沢に戻った。天保8年(1837年)11月28日、赤坂新町一丁目に220坪余の町屋敷を拝領し、町会所、商店、長屋として貸付けた。天保7年(1836年)11月19日奥医師、40人扶持。 天保10年(1839年)9月18日徳川家斉の類中風に罹ったため、16日間詰切で治療して効果を挙げ。12月18日法眼に叙せられた。天保11年(1840年)8月21日にも腫気のため、再び泊まり番で治療に当たり、9月16日200俵。しかし、自身も病気となって療養中、天保12年(1841年)閏1月7日に家斉は容態が急変し死去した。 天保12年(1841年)2月22日本丸御医師、9月16日当道座を離れて寄合医師となり、葦原源道と名乗った。天保15年(1845年)坂幽玄より旧号を与えられ、玄道と改称した 安政4年(1857年)5月体調が悪化し、11月5日死去、29日成子村常円寺に葬られた。
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幕府出仕
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安政3年(1856年)6月10日に小姓組酒井対馬守組、後に仙石右近組に入り、安政6年(1859年)に祖父が将軍継嗣問題などに絡む政争のため失脚すると、8月27日に家督を継ぎ、柴田能登守組を経て文久3年(1863年)1月22日に小納戸、同年2月と12月に行われた14代将軍徳川家茂の上洛に随行した。元治元年(1864年)5月20日に江戸へ戻り6月23日に勤仕並寄合、慶応2年(1866年)8月27日に幕府陸軍歩兵頭並。同年9月7日にイギリス留学を命じられ、ウィリアム・ロイド監督の下、中村正直と留学生取締として10月25日に横浜港を出帆、ロンドンに渡った。当初は中風で寝たきりの祖父が心配だったが、祖父から励ましの言葉をもらい、江戸に祖父と継祖母さと、妻花子を残して異郷へ旅立った。 慶応3年(1867年)1月から慶応4年(1868年)6月までエドワード・モルトビー に英語を学ぶ傍ら、徳川昭武の来訪のため度々フランスの首都パリに出て向山黄村等と協議を行った。 ところが、慶応4年1月4日にパリ方より大政奉還の報を受け、4月28日に日本への帰国を決定するも渡航資金がなく、閏4月18日に渋沢栄一に委細を報告した所、昭武より帰国資金を得て6月25日に横浜に帰国した。帰国してみると祖父は江戸開城直前にピストルで自殺、留学中に花子が産んだ娘万喜は夭折、秩父の旧家に預けていた家財も盗まれ、無一文となっていた。
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幕府出仕
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1866年 慶喜が将軍になり、栄一は幕臣になる。陸軍奉行支配調役。
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