幕府宿老とは? わかりやすく解説

幕府宿老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 07:58 UTC 版)

小山朝政」の記事における「幕府宿老」の解説

建久元年1190年)冬、頼朝の上洛に随行し11月11日石清水八幡宮への参拝では行列先頭務める。12月1日頼朝右近衛大将拝賀随兵7人の内に選ばれ参院供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝御家人10人の成功推挙与えられた時、その1人に入り右衛門尉に任ぜられる。 建久3年1192年9月12日野木宮合戦の功により常陸村田下庄地頭補任される。この時、左衛門尉転じている。建久5年1194年10月9日頼朝朝政の家を訪問する朝政兄弟以下の一族弓馬堪能御家人集めて古い記録先例調べながら流鏑馬作法について語らせ、それを中原仲業に記録させる。正治元年1199年10月28日梶原景時訴え連署状に名を連ねる12月19日播磨守護補される建仁元年1201年2月3日大番役在京しており、関東追討勅許求め城長茂三条東洞院宿舎襲われる朝政行幸随行し不在で、残っていた郎従らが応戦し長茂は兵を引いた戻った朝政は長茂が在るという清水坂向うが行方は知れず、長茂は後に吉野討たれ首を晒された(建仁の乱)。 元久2年1205年8月7日幕府から義兄弟である宇都宮頼綱謀反疑われ北条政子邸における評議の席で大江広元朝政が頼綱を追討すべきと主張するが、朝政反逆には賛同しない防戦の際には全力尽くすと述べ追討辞する11日、頼綱と朝政書状北条義時届け謀計無き旨を述べるが許されず、この結果、頼綱は遁俗する。 承久3年1221年)、承久の乱では宿老として上洛せず関東に在った。貞応2年1223年10月25日検非違使兼ねている嘉禄元年1225年1月23日下野守任じられるが、翌年正月までに辞任している(『明月記』)。天福2年1234年3月29日出家して法名を生西とする(『尊卑分脉』)。 嘉禎4年1238年3月30日84歳卒する。病を患う幾日も経なかった。(以上、吾妻鏡より) 墓所埼玉県加須市大越徳性寺にあり、昭和34年1959年6月16日、市の史跡指定

※この「幕府宿老」の解説は、「小山朝政」の解説の一部です。
「幕府宿老」を含む「小山朝政」の記事については、「小山朝政」の概要を参照ください。

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