幕府宿老
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建久元年(1190年)冬、頼朝の上洛に随行し、11月11日、石清水八幡宮への参拝では行列の先頭を務める。12月1日、頼朝の右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り右衛門尉に任ぜられる。 建久3年(1192年)9月12日、野木宮合戦の功により常陸村田下庄の地頭に補任される。この時、左衛門尉に転じている。建久5年(1194年)10月9日、頼朝が朝政の家を訪問する。朝政の兄弟以下の一族や弓馬に堪能な御家人を集めて古い記録や先例を調べながら流鏑馬の作法について語らせ、それを中原仲業に記録させる。正治元年(1199年)10月28日、梶原景時を訴える連署状に名を連ねる。12月19日、播磨守護に補される。建仁元年(1201年)2月3日、大番役で在京しており、関東追討の勅許を求める城長茂に三条東洞院の宿舎を襲われる。朝政は行幸に随行し不在で、残っていた郎従らが応戦し長茂は兵を引いた。戻った朝政は長茂が在るという清水坂に向うが行方は知れず、長茂は後に吉野で討たれ首を晒された(建仁の乱)。 元久2年(1205年)8月7日、幕府から義兄弟である宇都宮頼綱の謀反が疑われ、北条政子邸における評議の席で大江広元は朝政が頼綱を追討すべきと主張するが、朝政は反逆には賛同しないが防戦の際には全力を尽くすと述べ、追討を辞する。11日、頼綱と朝政は書状を北条義時に届け、謀計は無き旨を述べるが許されず、この結果、頼綱は遁俗する。 承久3年(1221年)、承久の乱では宿老として上洛せず関東に在った。貞応2年(1223年)10月25日、検非違使を兼ねている。嘉禄元年(1225年)1月23日、下野守に任じられるが、翌年正月までに辞任している(『明月記』)。天福2年(1234年)3月29日、出家して法名を生西とする(『尊卑分脉』)。 嘉禎4年(1238年)3月30日、84歳で卒する。病を患うと幾日も経なかった。(以上、吾妻鏡より) 墓所は埼玉県加須市大越の徳性寺にあり、昭和34年(1959年)6月16日、市の史跡に指定。
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