江戸幕府宿老
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寛永9年(1632年)、秀忠は臨終に際して直孝と松平忠明を枕元に呼び、3代将軍・徳川家光の後見役に任じた(大政参与)。これが大老職のはじまりと言われる。その後、家光からも絶大な信頼を得て徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石の領土を与えられた。徳川家綱の元服では加冠を務め、宮参りからの帰りに井伊家屋敷にお迎えした。これらと家康の遠忌法会で将軍名代として日光東照宮に名代として参詣する御用は、直孝が務めて以降先例として彦根藩井伊家固有の御用となった。朝鮮通信使の応接においても幕閣筆頭としての役割を担うなど、70歳で逝去するまで譜代大名の重鎮として幕政を主導した。 清に滅ぼされた南明政権の鄭芝龍の救援出兵要請を受けるかどうか幕府内で話し合った際は、その頃大量に発生していた浪人を送り込んで出兵すべきと主張した家光や徳川頼宣に対し、豊臣秀吉の朝鮮出兵を引き合いに出して強く反対し、出兵しないことに決まった。その後、鄭芝龍の息子・鄭成功からも出兵要請が幕府にあったが、棚上げにされた。 長男・直滋は江戸で幼少の頃から秀忠・家光に寵愛され、何不自由なく育ったためか我が強い性格で、直孝とたびたび対立し、言い争うことが多かった。直孝死去の前年の万治元年(1658年)、直滋は突然出奔して百済寺に遁世した。翌万治2年(1659年)4月、末子・直澄が世子となり、直孝によりその次の当主は直縄の嫡男・直興と定められた。同年6月に直孝が没すると同時に直澄が家督を継いだ。
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