江戸幕府成立以降
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越後高田藩の藩庁が置かれた。 1607年 - 堀忠俊が福島城を築き、春日山城は廃城となる(越後福島藩の立藩)。 1610年 - 越後福嶋騒動によって堀氏は改易となる。 1610年 - 徳川家康の六男、松平忠輝が信濃川中島から福島城に75万石で入封。 1614年 - 忠輝が福島城を廃し、高田城を建築。 1616年 - 忠輝改易。酒井家次が上野高崎10万石から移封(10万石) 1618年 - 家次の子・忠勝が信濃松代に転封。松代藩主松平忠昌が高田25万9千石となる。 1623年 - 忠昌、越前福井藩50万石を相続。高田から移動。 1624年 - 松平光長(越後中将家)が26万石で立藩。 1665年 - 高田地震により建造物倒壊。三重櫓を建設。 1681年 - 越後騒動により、光長改易。 (この間、幕府直轄。信濃の大名が2人組ずつ1年交代で城代。) 1685年 - 稲葉正往が相模小田原10万2千石から移封、10万3千石。 1701年 - 稲葉正往、下総佐倉に国替え。佐倉の戸田忠真が交換移封6万8千石。 1710年 - 戸田忠真、下野宇都宮に移封。松平定重、伊勢桑名から移封。11万3千石。 1741年 - 松平定賢、陸奥白河に移封。 1742年 - 榊原政純が播磨姫路から15万石で入封。 創藩当時の高田藩は、親藩の大藩である越前福井藩と共に加賀前田藩を丁度挟む配置である上、日本海側東北地方の外様大名への押さえとして、幕府にとって重要な位置づけとされた。その後、石高の減少や前田家と将軍家も縁戚を重ねるなどしたため、次第にその役割は小さなものとなっていった。元来気候の厳しい北国であること、松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件の舞台であったことなどによって、幕府や諸大名にとって高田藩は負のイメージを抱かせるものとなり、江戸中期以降はしばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば流刑地のような位置づけが強くなった。 稲葉正往 江戸に近い相模小田原城主より転封。同時に京都所司代を罷免された。綱吉を将軍に擁立することを反対した大老酒井忠清派の人物であったため、これを嫌った5代将軍綱吉により粛清された結果である。のち老中に返り咲いた際、江戸に近い下総佐倉に移封された。 戸田忠真 佐倉城主より転封。江戸から極めて近い佐倉城主であったが、戸田氏が幕閣から遠ざかったために、江戸から離れた高田に移された。佐倉城主は幕閣の中枢の譜代大名がしばしば入封するのが例であったため、忠真の父の忠昌が致仕したことにより、領地替えとなった。忠真に対する懲罰と言うより、稲葉正往の佐倉入りに伴い、忠真が弾き出された形に近い。その後、忠真が幕閣で重視されるに伴い、江戸により近く、関東の重要拠点である下野宇都宮に再移封された。 松平定重 桑名城主より転封。些細な経理ミスを犯した藩士の野村増右衛門を斬首し、懲罰は野村の一族にも及んだ。この厳科が5代将軍綱吉の不興を買い、東海道の要所の桑名から高田に転封された。五代のちに松平家は陸奥白河に移封された。 榊原政純 姫路城主より転封。政永の父、榊原政岑が幕府の倹約令を無視した言動を行った。吉原で豪遊し、女郎の高尾太夫を身請けするなどの行動が、倹約令を推し進めていた8代将軍吉宗の怒りを買った。榊原家は幕府の名門ということもあり改易とはならなかったが、政岑は強制隠居・蟄居となり息子政純が相続したが、格の高い姫路城主の地位から越後高田に転封という処分になった。高田に移ってのちの政岑には、名君伝承が残る。
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