じょう‐ろ〔ヂヨウ‐〕【▽女▽郎】
読み方:じょうろ
2 おんな。女性。
じょ‐ろ〔ヂヨ‐〕【女▽郎】
じょ‐ろう〔ヂヨラウ〕【女郎】
め‐ろう〔‐ラウ〕【女郎】
遊女
(女郎 から転送)
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遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊廓や宿場で男性に有償で性的な仕事をする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称[1]。「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。
呼称
「遊女」という呼称は古くからあり、元来は芸能に従事する女性一般を指したものであり、とりたてて売春専業者を意味するものではなかった。
古代中国の遊女
古代中国では遊女のことを妓女と呼ぶが、遊女という言葉は『詩経』周南・漢広編に「漢に遊女有り、求むべからず」とある[2]。この詩経での用例は、川(漢水)べりで遊ぶ女という意味、もしくは川の女神という意味である[2]。齋藤茂は日本語での遊女は、この詩経での「出歩き遊ぶ女」から派生したようだとしている[2]。なお、日本の遊女の別称である「女郎」は、古代中国では「若い女性」の意味である[3]。

日本における遊女の呼称
日本では古来より数多くの呼称があり、古く『万葉集』には、遊行女婦(うかれめ)の名で書かれており、平安時代になるとこれに代わって遊女(あそび)がでてくる[4]。「遊(あそび)」は、『源氏物語』みをつくしの巻に「遊共の集ひまいれるも」(底本によっては「遊」を「遊女」とするものもある。)、『栄花物語』に「えぐち(江口)という所になりて、あそびどもかさに月をいだし」、『散木集』に「あそびども数多もうで来て」、『更級日記』に「あそび三人」などがあり、歌舞を主にし、「あそびめ」「あそびもの」とも言った[5]。中世には、傀儡女(くぐつめ)や白拍子(しらびょうし)、傾城(けいせい)、上臈(じょうろう)などと呼ばれていた。
近世になると、女郎(じょろう)、遊君(ゆうくん)、娼妓(しょうぎ)といった呼称もあらわれる。遊廓の遊女には位があり、最高位の遊女を太夫という。江戸の吉原遊廓では太夫が消滅した宝暦以降は高級遊女を花魁(おいらん)といった。
大衆的な遊女には湯屋で性的労働を行う湯女(ゆな)、旅籠で性的労働を行う飯盛女(めしもりおんな)がある。そのほか街角で買春客を待つ京都の辻君(つじぎみ)、大坂の惣嫁・総嫁(そうか)、江戸の夜鷹(よたか)などもある。ただし一般的には、「遊女」「遊君」と言った場合はこうした大衆的な娼婦より上位の女を指す[1]。
琉球
琉球王国では尾類(ジュリ)と呼ばれる技芸を身に付けた女性が、冊封使や首里の貴人などを辻でもてなしていた[6]。売春も行うが、芸妓のように歌や踊りによる接待もあった。
歴史
古代
奈良期から平安期における遊女の主たる仕事は、神仏一致の遊芸による伝播であり、その後遊芸伝承が次第に中心となる。
日本に於いては、母系婚が鎌倉時代初期まで続いていたが、男系相続の進展と共に、母系の婚家に男が通う形態から、まず、別宅としての男性主体の住処が成立し、そこに侍る女性としての性行為を前提とする新たな女性層が生まれる。これは、原始から綿々と続いた、子孫繁栄のための対等な性行為から、性行為自体を商品化する大きな転機となる。それまで、財産は母系、位階は夫系であった秩序が壊れ、自立する拠り所を失った女性が、生活のために性行為を行う「売春」が発生するのは、正にこの時期である。
売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、日本の遊女も古くから存在していた。諸外国の神殿娼婦と同様、日本の遊女もかつては神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていたが、後に神社を去って諸国を漂泊し、宿場や港で歌や踊りをしながら一方で性も売る様になったものと思われる。一方で遊女と宮中の舞踊・音楽の教習所である「内教坊」の「伎女」になんらかの関連があると考える研究者もいる。
『万葉集』には「遊行女婦」として現れる。平安時代に「遊女」の語が現れ、船舶の出入りが多い土地のような一定の場所に常住して旅人を客として捉えることに発展し[1]、特に大阪湾と淀川水系の水運で栄えた江口・神崎、川尻、室、蟹島の遊女が知られ、平安時代の文章家、大江匡房が『遊女記』を記している。同じ頃、宿駅で春をひさぐ女は傀儡女とも言われた。平安時代中期に成立した『更級日記』には、少女時代の作者菅原孝標女を含む旅の一行が足柄山麓の宿で遊女の歌を鑑賞するくだりがある。
遊女(あそび)三人、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。 (中略) 声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。
中世
鎌倉時代には白拍子・宿々の遊君といった遊女が現れたが、鎌倉幕府・室町幕府も遊女を取り締まり、税を徴収した。建久4年(1193年)5月15日に里見義成が遊女別当に任じられ、それまで自由業だった遊女屋と遊女を取り締まり、制度のもとに営むことを命じた(『吾妻鏡』)[7]。足利氏は大永8年(1528年)に竹内新次郎を公事に傾城局を設けて取り締まった[7]。
中世当時、遊女や白拍子を母に持つ公卿や武将は多く(後述書 p.17)、従一位太政大臣にまで上り詰めた徳大寺実基の母も遊女であり、『尊卑分脈』にも高位高官の貴族武将に確認できることから、貴族達は14世紀前半までは、そうした母親の出自に関して、なにはばかることなく、系図に載せ、周囲も怪しむことは無かった[8]。
近世
江戸時代に入り雇用契約制度である年季奉公が一般に普及しはじめると譜代下人(または譜代奉公人)としての男性の売買は江戸時代中期(17世紀末)にはほとんど見られなくなったが、遊女や飯盛女の年季奉公ではいくつかの点で人身売買的な要素が温存された[9]。
- 家長権を人主から雇い主へ委譲
- 転売の自由
- 身請け・縁付けの権利を雇い主に委譲
- 死亡後の処置も雇い主へ一任
中田薫 (法学者)は「奴婢所有権の作用にも比すべき、他人の人格に干渉し、其人格的法益を処分する人法的支配を、雇主の手に委譲して居る点に於て、此奉公契約が其本源たる人身売買の特質を充分に保存する」[10]として「身売的年季奉公契約」と名付けた[9]。年季奉公制度は遊女の人身売買性の払拭にはたした役割は大きく、女衒組織へ娘を身売りする契約が年季奉公に変わっていくと、「身売り」から「奉公へ出す」という認識へ移行したと下重清は指摘している[11]。年季奉公による契約を結ぶことによって人身売買としての「身売り」の実態が隠蔽され「奉公へ出す」という認識が一般的になった[9]。
江戸時代の娼婦には大きく三通りがある。遊廓などの店で客を取った者、飲食店や旅館などで個人的な建前の元で客を取った者、個人的な街娼である。当時は近代的な性病の予防ができなかったため、性病の罹患率が高かったと見られている。
近世になると、遊女屋は都市の一か所に集められ遊廓が出来た。天正13年(1584年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。その5年後、天正17年(1589年)には京都柳町に遊廓が作られた。慶長17年(1612年)、江戸幕府は江戸に日本橋人形町付近に吉原遊廓を設けた。17世紀前半に、大坂の遊廓を新町(新町遊廓)へ、京都柳町の遊廓を朱雀野(島原遊廓)に移転したほか、吉原遊廓を最終的に浅草日本堤付近に移転した。寛永19年(1642年)には、長崎に丸山遊廓ができ、外国人を対象とした当時唯一の遊廓として、丸山遊女のみが唐人屋敷や出島への出入りが許された[12]。島原、新町、吉原が公許の三大遊廓(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国20数カ所に公許の遊廓が存在し、私娼を禁じた。遊廓以外で売春するものを隠売女と称し、厳しく取り締まった[13]。これに従い、城下町や宿場の遊女屋は「旅籠屋」の名目を取り、娼婦のことを子供とか飯盛女と称した[7]。

長崎の丸山遊女には、日本人客のみを相手にする日本行、外国人を主に相手にする唐人行・阿蘭陀行の別があり、延宝年間(1673年-1681年)の記録では、遊女776人中、日本行の遊女は10人のみで、格としては吉原の太夫と同様、丸山では最上ランクであった[12]。日本行の遊女は茶道・華道・香道を修め、歌舞音曲や読み書きにも優れ、容姿も良いことが条件だったが、唐人行からの昇進や、遊女屋との縁故関係でなれる場合もあった[12]。オランダ人を相手にする阿蘭陀行遊女が最下層であったが、丸山では、日常は遊廓の外で暮らしながら名義のみを遊女屋に登録し、中国人・オランダ人の接待のみを専門に行なう「仕切り遊女・名付け遊女」と呼ばれる遊女があり、世間に遊女奉公を知られることなく金銭を得ることができることから、自ら登録する者がほとんどで、幕末には登録料を支払ってまでなる者もあった[12]。また、丸山では、1715年に遊女の懐妊に関する法令が出され、外国人との子を懐妊した場合は届け出をしなければならず、父親となる外国人には養育の義務が生じ、父親帰国後の出産の場合は遊女屋に養育の義務があるとされた[12]。母子が唐人屋敷や出島で暮らすことも許されたが、父親が帰国する場合、子供を連れて行くことは禁じられた[12]。
ヨーロッパでは個人が自分で売春するのであって、だからこそ本人が社会から蔑視されねばならない。日本では全然本人の罪ではない。大部分はまだ自分の運命について何も知らない年齢で早くも売られていくのが普通なのである。 — 沼田次郎、荒瀬進共訳『ポンぺ日本滞在見聞記』雄松堂、1968年
明治以降
明治時代、制度に則った遊廓は全国に約350、それ以外の遊廓に類するものが約150あった[7]。明治維新以降、吉原遊廓などの日本の売春制度は、ラザフォード・オールコックなど外交官や宣教師たちの批判にさらされた[15]。1872年(明治5年)に発生したマリア・ルス号事件により人身売買の容認を指摘された明治政府は、同年に芸娼妓解放令・牛馬切りほどき令を発布し、年季奉公中の娼妓を解放したが[15]、娼婦が自由意思で営業しているという建前になっただけで、前借金に縛られた境遇という実態は変わらなかった。しかし、突然発令された芸娼妓解放令に対する遊廓側の反発と、路頭に迷う娼妓の発生といった事態の中、翌1873年(明治6年)には、東京府が「貸座敷渡世規則及び娼妓渡世規則」を発令した。その後、遊廓の公娼取締り規則は国から地方自治に移管、各地方に応じた規制が行なわれ、娼妓が自由意志で営業する形式が整えられた。
新たな遊廓制度に対し、新島襄らの安中教会が先頭となって遊廓公許反対運動が起こされた。また、男女同数論を唱え妾制度を批判した福沢諭吉は『家庭叢談』[16]の中で、芸娼妓は「人外人」であると評し、娼妓を排除・拒絶することでその生業を恥と自覚させ、転向を促すことを唱道した。娼婦や売春宿の隔離、囲い込みなどが成されたほか、新聞などで娼婦が「醜業婦」、「闇の女」などの別称で呼ばれる例が見られる様になる[17]。こうした政治・言論界の世論誘導によって、維新以前は花魁と呼ばれた芸娼妓も、明治初期より社会的地位が沈下していった[15]。
1900年(明治33年)の内務省令(娼妓取締規則)により再び統一規制となり[7]、官許の売春婦は、18歳以上の独身者で親の承諾を得た者に限り、所轄警察署の娼妓名簿に登録したうえ、指定の貸座敷以外で商売をしてはならないなど、16条が決められた。1904年(明治37年)末の調査では、全国に官許の娼妓4万2000人余、芸妓2万6000人余を数えた[18]。
大正時代の所定の貸座敷地域は、都内は6か所(吉原、洲崎、新宿、品川、千住、板橋)に限定され、大正10年の都内の娼妓登録者は5600人であった。その8割以上が吉原、洲崎、新宿に集まり、半年で約30万人の集客があったという[19]。
1930年代、世界20数か国において公娼制度が布かれていたが、法律をもって娼妓の自由な外出を禁じている例は日本のみであった。国際連盟のジョンソン委員会などからも非人道的な時代錯誤の制度として非難を浴びたことから、1933年(昭和8年)、娼妓取締規則第七条第二項に定められた外出禁止規定が撤廃された[20]。
多くの若い男性が帝国議会の承認を経た兵役法に基づき政府によって徴兵された日中戦争の頃には、軍人軍属相手に性的労働を行う慰安婦として中国・満州・東南アジアなど日本の支配地域一帯で働いていた。
近代になり公娼制度の下で近代的な性病検査が行われるようになった。国際的に見て、アジアなどの広域で各国娼婦が活動する(または売買される)ようになったのは、これが大きいとも言われる。また公娼制度の下での性病検査の存在は、公娼廃止運動に対する反対根拠ともなっている。
戦後1946年(昭和21年)にGHQの指令により遊廓は廃止され赤線に看板を変えるが、これも1958年(昭和33年)の売春防止法の施行によりいったんは消滅した。
仕事内容
一般的には、宴会席で男性客に踊りを始めとする遊芸を主に接待し、時代、及び立地により、客の求めに応じて性交を伴う性的サービスをする事もあった。江戸時代の遊女の一部は女衒(ぜげん)から売られた女性であったが、高級遊女の大部分は、廓(くるわ)の中や、遊芸者層で生まれた女子の中で、幼少時から利発かつ明眸皓歯(めいぼうこうし)な者が、禿(かむろ)として見習いから育てられた。だいたい10年ほど奉公し、年季を明ければ(実年齢25〜26前後)自由になるが、それ以前に身請されて結婚、あるいは囲われる者も多く、また一部はやり手(遊女の指導・手配などをする女性)や縫い子、飯炊きなどとなり、一生を廓の中で過ごす者も存在した。また、雇い主からの折檻、報酬の搾取など劣悪な環境で働かされた者が多かった。
関連用語
新吉原における各種の女郎
- 高級遊女
- 中級遊女
- 座敷持 - 居稼ぎの見世において、居住用の自室とは別に接客用の専用座敷が与えられている遊女。
- 部屋持 - 廓内に自室が与えられている遊女。花魁と呼ばれる下限。
- 散茶女郎 - 原義は「(客を)振らない」、選り好みせず金さえ出せば誰とでも寝るという意味。後に相対的に高級化し、昼三と呼ばれるようになる。
- 梅茶女郎 - 本来は「薄(う)め茶」と書く。つまり散茶の下位互換という洒落。
- 下級遊女 - 送り込みではなく職住一体の居稼ぎで、小見世や長屋形式の切見世に居住し客を引く。
- 局女郎 - 元々は格子の下で、大雑把に下位の女郎を意味したが、後年には底辺層を指す言葉となった。
- 河岸女郎 - 吉原でも中心部ではなく端のほう、川沿いに位置した切見世に属する女郎。
- 端女郎 - 文字通り最下層の女郎を指す。
- 新造
- 振袖新造 - 13-17歳の遊女候補生。宴席には同席するが客は取らない。
- 引込新造 - 振袖新造の中でも特に楼主から目をかけられ、将来の太夫候補として英才教育を受ける者。
- 留袖新造 - 振袖新造と同年代だが、教育期間の不足や容姿や才覚に恵まれないため、水揚げを待たずに客を取り始める新造。
- 太鼓新造 - 遊女としては不人気であるが、踊りや音楽など一芸に秀でているため宴席には呼ばれる者。
- 番頭新造 - 客は取らずに主に廓内の事務仕事を担当する。年季明けの年増や器量が悪く不人気な女郎が務める。
- 禿 - 廓に売られてきた12歳以下の童女。見習いとして付き人や雑用を務め、女郎になるための知識や技術を学ぶ。
- 引込禿 - 容姿に優れ利発な禿は、引込新造に育てるべく特別扱いを受ける。
脚注
- ^ a b c 遊女『大百科事典』 (平凡社、1935年)
- ^ a b c 齋藤茂「妓女と中国文人」(東方選書、2000年)p.5
- ^ 斉藤2000,p.6
- ^ 『更級日記』。本項#歴史を参照。
- ^ アソビ(遊)『大百科事典 第1巻』
- ^ 国立国会図書館. “沖縄のジュリ(尾類)についての資料はあるか。”. レファレンス協同データベース. 2021年5月28日閲覧。
- ^ a b c d e 公娼『大百科事典 第9巻』 (平凡社、1935年)
- ^ 網野善彦 他 『日本中世史像の再検討』 山川出版社、1版6刷1998年(1刷88年) p.17.
- ^ a b c 嶽本新奈「境界を超える女性たちと近代―海外日本人娼婦の表象を中心として―」一橋大学、博士論文、p. 15
- ^ 中田薫「徳川時代に於ける人売及人質契約」『法制史論集』3・上、岩波書店、1943 年。
- ^ 下重清『〈身売り〉の日本史——人身売買から年季奉公へ』吉川弘文館、2012年、160頁
- ^ a b c d e f 宮本由紀子「丸山遊女の生活 ‐「長崎奉行所判決記録 犯科帳」を中心として」(『駒澤史学』31巻、1984年3月) p.19-46
- ^ 私娼『大百科事典. 第11巻』 (平凡社, 1935)
- ^ 沼田次郎・荒瀬進共訳『ポンぺ日本滞在見聞記』雄松堂、1968年、p337, p344
- ^ a b c 関口すみ子『御一新とジェンダー:荻生徂徠から教育勅語まで』 東京大学出版会、2005年 ISBN 4130362232 pp.263-277.
- ^ 慶応義塾出版社、1876年
- ^ 『性欲の文化史』p.25 - 、p.128 -、『うるま新報』1946年2月20日「闇の女の増加に文相頭痛」(醜業婦との記述もあり)、『戦後性風俗大系』p.12 -
- ^ 『柏崎華街志』小田金平 編 (小田金平, 1909)
- ^ 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 大正12
- ^ 娼妓の外出自由を認める『中外商業新報』昭和8年5月16日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p318 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
参考文献
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。
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- 滝川政次郎著『江口・神崎ーー遊女・白拍子・傀儡女』至文堂
- 渡辺憲司著『江戸遊里盛衰史』講談社現代新書
- 宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』同成社
- 曽根ひろみ『娼婦と近世社会』吉川弘文館
- 相場長明編集『遊女考』燕石十種第一巻・中央公論版
- 森千銃編集『高尾考』燕石十種第一巻・中央公論版
- 森千銃編集『吉原雑話』燕石十種第五巻・中央公論版
- 今川守貞『類聚近世風俗史』名著刊行会版
- 喜多村筠庭(きたむら いんてい)『嬉遊笑覧』日本随筆大成編輯部
- 宮武外骨『売春婦異名集』猥褻風俗辞典版・河出書房新社
- 中村三郎『日本売春取締考(日本売春史第三巻)=附日本売春婦異名考=』日本売春研究会
- 義江明子・大日方純夫他編『日本家族史論集全13巻』吉川弘文館
- 石田龍藏『明治秘話』日本書院
- 国史大辞典編纂委員会『国史大辞典全15巻』吉川弘文館
- 石井良助『日本婚姻法史』創文社
- 高群逸枝『日本婚姻史』至文堂
- 高群逸枝『招聘婚の研究』理論社
- 高群逸枝『平安鎌倉室町家族の研究』国書刊行会
- 橋本義則『後宮の成立』思文閣出版
- 坂田聡『中世の家と女性』岩波書店
- 白石玲子『民法編纂過程における女戸主と入り夫婚姻』法制史研究
- 佐伯順子『遊女の文化史』中公新書
- 中野英三『遊女の知恵』雄山閣 ISBN 4639018045
- 小谷野敦『日本売春史-遊行女婦からソープランドまで』(新潮選書) ISBN 4106035901 ISBN 978-4106035906
関連項目
- 傀儡女
- 白拍子
- 湯女
- 飯盛女
- 岡場所
- 夜鷹
- 船饅頭 - 江戸で小舟で売春した私娼
- 公娼 - 遊廓(花街)/花魁
- 私娼
- 慰安婦
- 妓女(中国)
- 投げ込み寺
- 風俗街 - 赤線
- 穴守稲荷神社 - 「穴を(性病から)守る」に通じると考えられて、遊女達の信仰を集めた。
外部リンク
- 石井研堂『明治事物起原』橋南堂、1908年。
- 「吉原遊女の統計」朝野新聞 明治25年10月21日『新聞集成明治編年史、第八巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 『遊女の時代色 : 趣味史談』武田完二 著 (大同館書店, 1934)
- 服藤早苗、「傀儡女の登場と変容: 日本における買売春」『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』2010年 10巻 p.436(31)-421(46), 埼玉学園大学
- 平川知佳、「研究ノート:遊廓と祈り 〜久留米市・桜町遊廓における娼妓の生活と信仰〜」『西南学院大学大学院研究論集』 2017年2月 4巻, 西南学院大学
- 張応華、「廬隠の『柳島之一瞥』を読む : 中国人女性作家の見た昭和初期の日本の私娼窟」紀要論文『国際センター研究年報』 2006年 15号 p.193-200, 龍谷大学
- 『遊女』 - コトバンク
女郎
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きよ葉(日暮) 物語の主人公。禿のときの名前は「とめき」、引込のときは「おりん」、新造のときは「きよ葉」、第二部(花魁)での名は「日暮(ひぐらし)」。本名は不明。 幼少の頃に父親が川で他界し、すでに母親も亡くしており、引き取りたいが貧しい地域だったため、玉菊屋に売られる。北の地方の出身だが、吉原に来る前のことは全て忘れたと言っている。玉菊屋に来る前から気が強く、口も悪く、女衒屋に毎日殴られていたが一度も泣かなかった「ふてぶてしいガキ」だった。玉菊屋にきてすぐに配属されたのは粧ひ。自分以上に性格が悪い粧ひをきよ葉は嫌っていた。禿時代は、このまま吉原にいれば恐ろしい花魁になってしまうと思い何度も脱走を図るが全て失敗しており、その度に折檻を受けている。初めて逃げた際には、すぐに捕まり髪まで剃られた。しかし、小さい時から器量が良く、最初から売れっ妓になれると周囲は話し、特別扱いされ他の禿よりも良い仕事をさせて、良い着物や化粧をされていた。気が強いせいで朋輩にも嫌われていた。粧ひが身請けされ吉原を出る際に、粧ひが初めて買った金蒔絵の長ぐしをもらったため、恩が出来てしまったため、逃げ出すのを辞めた。 粧ひが身請けされた後は、三雲の下で世話になっていた。やがて引込禿となり、芸事を習うようになった。同じ稽古所に通う松葉屋の引込の一歳上の13歳のお染と仲良くなる。お染は大きなタレ目で大人しい子だが、きよ葉と目が合うと可愛らしくにこりと笑う少女だった。美貌と稽古熱心さから将来を期待された引込であり、「あしらい」を知っていたため、いずれは先輩を超える売れっ妓と評判だった。お染は何故かいつも稽古の邪魔をするきよ葉を気に入り「おりんちゃん」と呼び、2人だけで川辺で大声を上げて泣いた後に笑う練習をし、帰る時には「二人の時だけ泣いてもいい」という約束で、指きりげんまんをしていた。お染のおかげできよ葉も作り笑いが上達していった。三雲の太客の若狭屋の旦那に体当たりして逃げたが、若狭屋の旦那は何故かきよ葉を気に入り、「うまく行けば新造出しの金を若狭屋が出してくれるかもしれないから、挨拶をしてこい」と言われ、きよ葉は挨拶を嫌がったが「お染ちゃんとの約束。ここで笑わなきゃ嘘になる」とプライドを捨てて礼を言い、年に似合わぬ顔で「にやり」と笑う。周囲は呆れたが若狭屋の旦那はきよ葉の「にやり」を気に入り、新造出しを申し出た。しかし、その矢先にお染は松葉屋曰く「はやり病」で急死してしまう。周囲は「首でもくくったか、せっかんのしすぎで死んだんだろう」と語っていた。忌み嫌う廓の世界で唯一心を許した親友を亡くしたきよ葉は、まだお染がいるのではないかと川辺に行くが、やはりおらず1人で泣いていたところ、清次に「泣くなら客の前で泣け」と言われ、現実を受け入れた。 きよ葉の年に似合わぬ微笑み見たさに、新造出しから三ヵ月後にはお大尽が列をなした。新造出しには二百両かかった。かなり盛大で、煙草入れや扇子にもきよ葉の名前が入れられた。これは三雲の借金となり、もしきよ葉が見世から借りて新造出しをすれば年季が何年も伸びていた。「十年に一人の天神」と評される名器の持ち主。しかし馬鹿正直に高野屋のご隠居との初出しまでおぼこだった。話や歌などは上手いが琴は苦手。 三雲に盛大な新造出しをしてもらったため、「粧ひと三雲姐さんはいがみ合っていたらしいが、こうしてわっちの面倒を見てくれるんだからありがてぇ」「粧ひは根性悪だからこんな盛大に新造出ししてくれなかったかもしれない」と少し信頼するが、新造出しの礼を言った際に、三雲の首に蚊が止まり、きよ葉が言おうとすると、優雅な素振りで蚊を「とん」と叩き殺したため「油断は禁物じゃな…」と気を払うようになる。案の定、きよ葉は三雲の見た目に寄らぬ嫉妬深さでわざときよ葉に恥をかかせられ、自分がまだまだ甘いと知らされた。 水揚げの候補は2人いたが、大金を払った三雲を贔屓にしている高野屋の御隠居となった。それまでは「おぼこ」だった。恋をした事もなく、きよ葉に惚れた花屋にわざと気のあるふりをしたが、花屋は実は先輩である梅葉姐さんの間夫であった。梅葉はきよ葉に惚れていく花屋に嫉妬し「誓いを立てる」とみんなのいる前で小指を斬ってもらうよう即す。周囲は「およしよ」「今どき、はやらねぇ(今時は誰もやっていない)」と拒否したが、きよ葉は鉄びんで剃刀の上から思いっきり叩き、梅葉の小指を落とす。きよ葉は、自ら痛い思いをしてまで相手に心底惚れている梅葉を「うらやましくなんかない。これがこの街の遊びじゃないか」と思うが、心底惚れた事がないため、思わず泣いてしまった。 三雲の贔屓客の連れで来た惣次郎に「こういうのは私はさっぱり…お前は面白いのかい?」と聞かれ、考えた事もなかったがいつもの如く「あい(はい)」と答え、「お前の在所(出身)はどこだい?」と聞かれ、「全部忘れてしまいんした。ここへ来る前のことは。」と答えると、惣次郎は「じゃあ私も忘れよう。ここに来た時は。」と答えたことから、初めて心底男に惚れ、惣次郎を間夫にするほど互いに惚れ合う。しかし、間夫に入れ込み、大量に休んでしまって上客が切れて、きよ葉に借金までし、散々貢いだ挙句に間夫に逃げられた若菊に騙され、待たせていた上客の坂口を怒らせ、惣次郎は脱兎の如く逃げてしまった。しかし一目見たいと男装をして脱走し、三松屋まで会いに行く。惣次郎に会って「どんな顔をするだろう 酷い顔をするだろう」と思ったが、きよ葉を見た惣次郎はニコリと笑い、きよ葉は惣次郎を「鬼だ。笑う鬼だ。」と思い、声も掛けずに逃げて行った。布が取れ、髪も乱れて子供の頃にお染と泣いた川に辿りつくと、声を上げて泣いた。日が沈むまで川の中で泣き続け、ついに清次たち玉菊屋の男衆に見つかり連れ戻され、三日三晩、水責め・火責めの折檻を受ける(映画版では折檻のシーンは無かった)。しかし、きよ葉は三日三晩の折檻も初めて苦しいとは感じず「どこへ行こうと同じこと。わかっただけで、もうけもんさ。」と思う。数日後、足抜けされたことを聞かれ「どこでとっ捕まったんだ?」と茶化され「とっ捕まったんじゃありんせん。てめえで帰って来ましたのさ。」と言って退けた。 しばらくし、(漫画版の冒頭)で、同僚で売れっ妓の花魁の高尾のしげじの頭を引っ掴み大泣かせする。その時のきよ葉は昼夜金二分で座敷持ち。ガラは悪いが廓のNo.3、育ての親のような存在の粧ひと同じほどまで出世していた。性格も受け継いでおり、同僚の特に高尾と不仲だった。前より煙管を吸うのが多くなっていた。さらには高尾が頭の回転の良さを利用しきよ葉に対する悪口の俳句を即座に読み、理解したきよ葉も顔面に回し蹴りをするなど暴れ者になっていた。高尾が間夫の絵描きと無理心中しようとし、逆に首を斬られて死んでしまい、間夫も逃げた際には、高尾の死を受け止めないしげじを無残な姿になった高尾の隣に投げていた。高尾の死後、若菊が身請けされるようになり、晴れて花魁となるが、本人は嫌がっていた。 どんなに売れて、客の扱いも上手くなったが、仕事以外での食事の食べ方は子供の頃から変わらず、米をかきこみ、がつがつと食べて口の周りに米粒をつけており「がっつきはなおらないねぇ」と呆れられていた。 禿や引込の頃に朋輩とは仲良くなかったが、ある程度成長し、廓にも慣れると朋輩と仲良くなっていた。後から入ってきた「にほひ」という同じく粧ひの世話になっていた女郎とよく行動している。 三雲 粧ひが吉原を去った後の玉菊屋で1番の人気で、きよ葉の面倒を見ていたが後に力をつけたきよ葉と玉菊屋で一、二を争うようになる。見た目とは裏腹に非常に嫉妬深く、ご隠居がきよ葉の突き出しの相手となることを知ると、隠れてきよ葉の禿を殴り怒りをぶつけた。 粧ひに対して「ニシンの昆布巻きと一緒さ。いいのは見た目だけ。」と発言し、いがみ合っていた。 粧ひと店で一位の座を争った後に、10年後にはきよ葉と若菊と自分が面倒を見た禿たちと一位の座を争っているため、年齢はかなりいっていると思われる。 漫画の冒頭できよ葉が花魁になる際にはいなかったため、身請けされたか、引退し芸妓になったと思われるが、三雲の性格から言えば芸妓に収まる人物ではないため、金持ちの贔屓に身請けされたと思われる。 映画版では登場せず後述の高尾にその設定が受け継がれている。 高尾 売れっ子の花魁。嫉妬深く、情熱的な面がある。頭の回転が速く、即興できよ葉に対しての悪口を含む俳句を詠み、きよ葉に回し蹴りされた。光信という浮世絵師の間夫がおり、剃刀で光信の事を殺して心中を試みたが逆に自分だけ殺される。しげじという禿を面倒見ており、しげじがきよ葉の弱味を握ったと言った際に、全く弱味ではないにも関わらず「きよ葉の弱味を握るなんてお手柄だね。誰にも言うんじゃないよー いざって時に使うんだ。」と褒めたり、しげじがきよ葉に泣かせられた時にはきよ葉の顔を足で踏みつけた。後輩たちの面倒見が良い。 引込禿の頃から仕込みに仕込み、やっと咲きこれからという時に殺害された。器量もあり、和歌も俳句も茶華道、将棋も出来た花魁であり、若菊やきよ葉ですら足元にも及ばない存在だった。 顔はきよ葉とは逆で目が小さく唇も小さい。さらにぽっちゃりしており、つり目・つり眉で流し目が自然と出来る当時では絶世の美女である。 映画版では隠居の馴染となっており、漫画版の三雲の設定が受け継がれている。 ちなみに伝説の花魁で「高尾太夫」という人物が実在している。高尾太夫は3人おり、どれがモデルかは不明だが、一番有名な高尾太夫は廓育ちの禿立ちで大金持ちの家に身請けに出されて、「女郎のくせに」と周囲に言われたが、家事がとても素早く出来、大和撫子だったという。しかし、本作の高尾のように殺害された人物はいない。 若菊 タレ目で唇が厚い美人。売れっ子だが、惚れ込んだ間夫に会いたいがために身揚りで7日も休み、髪も結えないほどに借金がかさんでしまう。店から「今日中に一切合切質へぶちこんで金を作れ!」と言われ琴を売るように言われたが、それだけは頑なに拒んだ。たまたまその言い争いを見ていたきよ葉が惣次郎に会った翌日で舞い上がっており、普段は起こさない仏心で三両貸す代わりに琴を肩代わりにもらった。間夫は散々貢がせて消えてしまった。そのため、仕事も上手くいき、間夫とも上手くいっているきよ葉を妬み、惣次郎ときよ葉を離させようとする。性格は少し三雲に似ており、暴力は振るわないが、精神的に痛めつけてきよ葉から太客も間夫も失わせ「同じ思いをしてるからこそ、同じ地獄に落とさなきゃ気がすまないのさ」ときよ葉に思わせた。最終的には松の位の遊女になり、身請けされた。 梅葉 きよ葉に自分の間夫を取られ、その間夫に誓いを立てるために、左手薬指をカミソリで切断し、その間夫に送った。周囲の女郎に切断して欲しいと頼むが断られた為、きよ葉に頼んで切ってもらった。 粧ひ 禿だった頃のきよ葉の面倒を見、女郎として一人前になるための手練手管を教え花魁になることを決心させた。気が強く口が悪くて根性も悪いが、美人で機転が利いてその上、床上手であった為、好き嫌いは分かれるが番付では常に上位3番に入った。何度も「女郎は嫌だ」と逃げ出すきよ葉に対し、「お前は花魁にはなれない。逆立ちしたってなれない。しかし外に出ても仕事もないから、ドブさらいかせっちんの掃除をして稼いで生活すればいい。」と突き放したが、きよ葉が「俺は花魁になってお前を見返すんだ!」と無意識に言わせ、手練手管を見せつけた。 仕事に異様なまでに誇りを持っており、きよ葉が朋輩に着物を隠され遣り手に叱られた際に「買って返す」と開き直ると、ものすごい形相できよ葉の顔を掴むと「お前はこの着物ひとつ買うことがどれほどのことか知っているのか!!なめた口ききやがると承知しねぇぞ!」ときよ葉を張り倒した。また、きよ葉が朋輩のにほひに「とめきどんはいいなぁ。将来はおいらんになれるとおばばさまや太鼓どんが言っていた。」と言われ「花魁になんぞなりとうない」というと、きよ葉の耳を掴み「なりたくてもなれないやつの方が多いんだ。「なりとうない」はなってから言え」と怒鳴りつけた。 過去に医者、和尚に求婚されたが断り、後に大店の材木問屋の若旦那に身請けされ、吉原を出た。身請けされた時には店の従業員から「あの子は幸せな子だよ」と言われたが、昔から粧ひを知る女郎たちからは「廓育ちの禿立ちがお店のご内儀などと、苦労は目に見えていんす。ほんに、わっちゃあ頼まれてもイヤじゃわい」と陰口を叩かれた。吉原を出る際に、初めての給金で買った金蒔絵の長ぐしを無くし、探しあてたきよ葉が周りの禿に「盗っ人」扱いされ、暴れたきよ葉の頭を一掴みでおとなしくさせ、きよ葉に譲り渡す。きよ葉が断るも「人より多くをもらうものは人より多く憎まれる。それがお職の花魁サ。憎まれっ子のお前にはうってつけじゃ。」とにやりと笑った。これには思わず悲しさを我慢していたきよ葉も声を上げて泣き周りから「可哀想なことをした」とやっときよ葉の無実を自らで証明させた。この髪飾りがきっかけできよ葉が花魁にのぼり詰めるための覚悟を託す意も込められた、最後の贈り物であった。 朋輩から相当嫌われていたのか、大門を出る時に、朋輩は挨拶はしたが後ろを向いた瞬間に舌を出された。出ていく時も相変わらずの飄々とした顔だったが、懐かしむように振り返り、柵があり、烏が飛び立つ夕方を思い出していたため、粧ひもきよ葉と同じく、幼少期に大門から出たいと思っていたことを伺わせる。 身請けに出される際に「廓育ちの禿立ちがお店の御内儀などと。苦労は目に見えていんす」と陰口を言われているため、母親も遊女であり、廓で生まれ、大門から一度も出た事がない根っからの女郎だったと思われる。
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