江戸幕府期
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減封後、吉川広家は藩政から退いて毛利秀元が執政となるが、実際の藩政は輝元と筆頭家老であった親吉川派の福原広俊によって主導された。旧毛利領6ヶ国返租問題や熊谷元直粛清などの藩内の混乱を鎮圧したのは輝元の信任が厚く、江戸幕府の重鎮本多正信に近かった広俊であった。広俊の下で藩政は安定を見せたものの、慶長18年(1613年)に秀元が徳川家康の養女(松平康元の娘、家康の姪)を後室に迎え入れると、輝元は秀元が徳川氏とのつながりを持ったことに危惧を抱き、改めて秀元と広俊に共同して秀就の後見を行うように命じた。その後、秀元は藩政において大きな権力を持った広俊に不満を抱く重臣たちと結んだため、互いに相手の排斥を図る様になった。 そのような中で、大坂の陣が発生する。広家や広俊は輝元にただちに幕府軍に参加するように勧めた。だが、今度は秀元が輝元と極秘に協議して、万が一豊臣方が勝利した場合に備えて輝元の従兄弟にあたる内藤元盛(佐野道可)を秘かに大坂城に入城させて豊臣方に参加させ、敗戦後帰国した元盛を処刑して内藤氏を取り潰した。これは広家が関ヶ原で行ったのと全く同じことであったが、一歩間違えれば周防・長門すら失いかねない事態であり、そうした重大な計画を秀元・輝元・秀就とわずかな側近だけで決定し、広家や広俊らをはじめ重臣らには全く知らせていなかった。これに激怒した広家は、居城の岩国城に引き籠もり、嫡男の広正に家督を譲って隠居し、広俊も役職を辞退した。 ところが、秀元は家康との婚姻関係と老中土井利勝との親交を頼みに、関ヶ原の時の広家とは逆に藩政の掌握を図り、益田元祥・清水景治らを起用して広家父子や福原氏・児玉氏ら古くからの重臣達に圧迫を加えた。そして元和9年4月20日(1623年5月19日)、輝元の正式隠居を理由に秀就が正式な毛利氏当主に就任して、秀元は2代将軍徳川秀忠の直々の命で仕置を代わりに行うように命じられた。秀元はこの秀忠の意向を盾に、長府藩の家格上昇と吉川氏への圧迫を強めていく。一方、輝元は秀元の政治力に期待する反面、吉川氏及びこれを支持する重臣達との対立を憂慮して、吉川広正に自分の娘・竹姫を嫁がせ、自分の次男毛利就隆に秀元の娘・菊姫を嫁がせることで両川の維持を訴えた。だが、輝元病没直後の寛永2年8月13日(1625年9月14日)には、秀元主導による大規模な家臣の移封が強行され、秀元は藩主同様の権力を行使しうることを内外に印象付けた。翌月に広家は憂慮のうちに病没している。 だが、秀元のこうした振舞いは専横とみなされて、新当主となった秀就からも反感を抱かれるようになる。そして寛永8年(1631年)に入ると、秀元の子の光広と秀就の娘との婚儀が破談したのを機に全面衝突の危機に至った。ここにおいて秀元は10月5日に執政を辞し、翌年9月13日には紆余曲折の末に吉川広正が新執政となった。だが、実際の政務は秀元の元で藩政改革を行い、吉川氏とも近い関係にあった益田元祥が家老として主導しており、秀就も広正執政の長期化を望まなかったため、次第に益田らの補佐を受けながら自らが政務を執るようになる。寛永11年(1634年)の秀元・広正の独立阻止を経て、長州藩毛利氏は藩主と家老ら重臣を中心とした藩運営による政治体制に移行し、当主が親族2家によって補佐される「毛利両川」の時代は事実上終了することになった。
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