江戸幕府期とは? わかりやすく解説

江戸幕府期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 02:36 UTC 版)

毛利両川」の記事における「江戸幕府期」の解説

減封後、吉川広家藩政から退いて毛利秀元執政となるが、実際藩政は輝元と筆頭家老であった吉川派の福原広俊によって主導された。旧毛利領6ヶ国返租問題熊谷元直粛清などの藩内の混乱鎮圧したのは輝元の信任厚く江戸幕府重鎮本多正信近かった広俊であった。広俊の下で藩政安定見せたものの、慶長18年1613年)に秀元が徳川家康養女松平康元の娘、家康の姪)を後室迎え入れると、輝元は秀元が徳川氏とのつながり持ったことに危惧抱き改めて秀元と広俊に共同して秀就の後見を行うように命じたその後、秀元は藩政において大きな権力持った広俊に不満を抱く重臣たちと結んだため、互いに相手排斥を図る様になった。 そのような中で、大坂の陣発生する。広家や広俊は輝元にただちに幕府軍参加するように勧めた。だが、今度は秀元が輝元と極秘協議して万が一豊臣方勝利した場合備えて輝元の従兄弟にあたる内藤元盛佐野道可)を秘かに大坂城入城させて豊臣方参加させ、敗戦後帰国した元盛を処刑し内藤氏取り潰した。これは広家が関ヶ原行ったのと全く同じことであったが、一歩間違えれば周防長門すら失いかねない事態であり、そうした重大な計画を秀元・輝元・秀就とわずかな側近だけで決定し、広家や広俊らをはじめ重臣らには全く知らせていなかった。これに激怒した広家は、居城岩国城引き籠もり嫡男の広正に家督譲って隠居し、広俊も役職辞退した。 ところが、秀元は家康との婚姻関係老中土井利勝との親交頼みに、関ヶ原時の広家とは逆に藩政掌握図り益田元祥清水景治らを起用して家父子や福原氏児玉氏古くからの重臣達に圧迫加えた。そして元和9年4月20日1623年5月19日)、輝元の正式隠居理由に秀就が正式な毛利氏当主就任して、秀元は2代将軍徳川秀忠直々の命で仕置代わりに行うように命じられた。秀元はこの秀忠意向を盾に、長府藩家格上昇吉川氏への圧迫強めていく。一方、輝元は秀元の政治力期待する反面吉川氏及びこれを支持する重臣達との対立憂慮して吉川広正自分の娘・竹姫を嫁がせ、自分次男毛利就隆に秀元の娘・菊姫嫁がせることで両川維持訴えた。だが、輝元病没直後寛永2年8月13日1625年9月14日)には、秀元主導による大規模な家臣移封強行され、秀元は藩主同様の権力行使しうることを内外印象付けた翌月に広家は憂慮のうちに病没している。 だが、秀元のこうした振舞い専横みなされて、新当主となった秀就からも反感抱かれるうになる。そして寛永8年1631年)に入ると、秀元の子の光広と秀就の娘との婚儀破談したのを機に全面衝突危機至ったここにおいて秀元は10月5日執政辞し翌年9月13日には紆余曲折の末に吉川広正が新執政となった。だが、実際政務は秀元の元で藩政改革行い吉川氏とも近い関係にあった益田元祥家老として主導しており、秀就も広正執政長期化を望まなかったため、次第益田らの補佐を受けながら自らが政務執るうになる寛永11年1634年)の秀元・広正の独立阻止経て長州藩毛利氏藩主家老重臣中心とした藩運営による政治体制移行し当主親族2家によって補佐される「毛利両川」の時代事実上終了することになった

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