松平定重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/15 21:36 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛永21年11月16日(1644年12月15日) |
死没 | 享保2年10月27日(1717年11月29日) |
改名 | 万吉(幼名)→定重 |
戒名 | 円鏡院殿照誉定信智法大居士 |
官位 | 従五位下、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊勢桑名藩主→越後高田藩主 |
氏族 | 久松松平氏 |
父母 | 父:松平定頼、母:養仙院(京極高広の娘) 養父:松平定良 |
兄弟 | 定盛、定長、定重、真修院(島津綱久正室)、仙寿院(山内豊昌正室)、黒田之勝正室、酒井忠直正室、正寿院(阿部定高正室) |
妻 | 正室:前田利常の娘、継室:駒井氏 |
子 | 定富(四男)、定逵、定儀、水野忠定、定弘、柳生俊平、定利(十二男)、娘(島津吉貴正室)、娘(松平忠雅正室)、娘(五島盛暢継室のち本多助芳正室)、娘(本庄宗弥正室のち京極高栄継室)ら |
松平 定重(まつだいら さだしげ)は、伊勢桑名藩、のち越後高田藩初代藩主。定綱系久松松平家3代。伊予松山藩主・松平定頼の三男。
生涯
伊勢桑名藩の先代藩主である松平定良の養嗣子となり、明暦3年(1657年)に桑名藩主となる。宝永7年(1710年)5月、郡代・野村増右衛門を経理上の不手際により打ち首にし、増右衛門の親族44人と関係者の役人370人を死刑、追放、罷免などの処分にした事件が発生する(野村騒動)。その重すぎる処分が幕府の不興を買い、閏8月15日に越後高田藩11万3,000石へ移封された。正徳2年(1712年)9月7日、五男の定逵に家督を譲って隠居し、享保2年(1717年)10月27日に74歳で死去した。
|
|
松平定重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 04:06 UTC 版)
桑名城主より転封。些細な経理ミスを犯した藩士の野村増右衛門を斬首し、懲罰は野村の一族にも及んだ。この厳科が5代将軍綱吉の不興を買い、東海道の要所の桑名から高田に転封された。五代のちに松平家は陸奥白河に移封された。
※この「松平定重」の解説は、「高田城」の解説の一部です。
「松平定重」を含む「高田城」の記事については、「高田城」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 松平定重のページへのリンク