柳沢信鴻とは? わかりやすく解説

柳沢信鴻

読み方やなぎさわ のぶとき

江戸時代中期大名俳人郡山藩主。字は伯、名は久・義稠・信卿・伊信、号は米翁・紫子庵等。吉里の子大和郡山生。従四位美濃守左兵衛督務める。冷泉家門人書画和歌俳諧能くした。著書に『新編集』等がある。寛政4年(1792)歿、69才。

柳沢信鴻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/20 21:23 UTC 版)

 
柳沢 信鴻
時代 江戸時代中期
生誕 享保9年10月29日1724年12月14日
死没 寛政4年3月3日1792年4月23日
別名 久菊、義稠、信卿、伊信
諡号 米翁、春来、香山、月村、蘇明山、
紫子庵、伯鸞
戒名 即仏心院無誉祐阿香山大居士
墓所 東京都新宿区 正覚山月桂寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
郡山藩
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢吉里、母:森氏
兄弟 信睦、時英、信鴻、信昌、伊奈忠敬、坪内定規
正室:伊達村年の娘
継室:真田信弘の娘
保光、信復(次男)、武田信明、六角広寿(四男)、里之、娘(米倉昌賢正室)、娘(阿部正倫正室)
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海棠小禽図 伊信筆 1766年 絹本着色

柳沢 信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩の第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主柳沢吉里の4男。

信鴻の日記

隠居後に祖父の吉保が築いた江戸六義園に居住した。亡くなる間際まで『宴遊日記』・『松鶴日記』と呼ばれる日記を毎日欠かさず書き残した。天明寛政期の政治社会状況が克明に記されているだけでなく、毎日の江戸(南関東)の天候が記されていることから、近年では天明の大飢饉の原因となった天候不順の実態解明にも役立てられている。

また六義園では、女中たちを選んで女歌舞伎を演じさせた。

年譜

官位位階

関連書籍

  • 「宴遊日記」『日本庶民文化史料集成 第13巻 芸能記録2』芸能史研究会 編. 三一書房, 1977.7
  • 小野佐和子『六義園の庭暮らし 柳沢信鴻『宴遊日記』の世界』平凡社, 2017.7
  • 是澤博昭『六義園・柳沢家の雛祭 『宴遊日記』にみる江戸の人形文化』ミネルヴァ書房, 2022.1



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