諏訪忠粛とは? わかりやすく解説

諏訪忠粛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/01 17:19 UTC 版)

 
諏訪忠粛
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和5年4月4日1768年5月19日
死没 文政5年6月28日1822年8月14日
改名 軍次郎(幼名)→忠粛
別名 月閑亭(号)
戒名 放光院殿普照道徳大居士
墓所 長野県諏訪市湯の脇の温泉寺
官位 従五位下伊勢守因幡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
信濃諏訪藩
氏族 諏訪氏
父母 父:諏訪忠厚、母:木村氏娘・おとめ
兄弟 忠粛、頼庸
正室:松平乗完の娘
側室:間野氏
忠恕森川俊一前田長徳松平忠恵継室、龍子(神人部頼安室)、平野貞任室
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諏訪 忠粛(すわ ただかた)は、江戸時代中期から後期にかけての大名信濃国高島藩7代藩主。官位従五位下伊勢守因幡守[1]

生涯

明和5年(1768年)4月4日、6代藩主・諏訪忠厚の長男として誕生した。父が暗愚だったために起こった家督騒動である二の丸騒動では、反忠粛の家臣らによって暗殺されかけたこともある。しかしこの騒動で父が幕府より強制隠居を命じられたため、天明元年12月11日(1782年)に跡を継ぐこととなった。

天明5年(1785年)からは坂本養川を登用して、検地や新田開発、税制改革、鋸製造業の奨励などを中心とした藩政改革を行い、ある程度の成果を収めた。享和3年(1803年)には藩校・長善館を創設して、藩士子弟の養育や藩医を長崎に留学させて蘭学を学ばせるなど、学問も積極的に奨励した。文化13年(1816年)11月21日、長男の忠恕に家督を譲って隠居し、文政5年(1822年)6月28日に死去した。享年55。

系譜

父母

  • 諏訪忠厚(父)
  • おとめ、前島氏 ー 側室(母)

正室

側室

  • 間野氏
  • 前島氏

子女

脚注

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『諏訪忠粛』 - コトバンク




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