諏訪直性とは? わかりやすく解説

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諏訪直性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 16:34 UTC 版)

諏訪 直性(すわ じきしょう)は、鎌倉時代末期の武士北条氏得宗家被官である御内人。同一人物とされる諏訪宗経(すわ むねつね)についても本項にて取り上げる。


  1. ^ 細川、2000年、P.187-188。
  2. ^ 細川、2000年、P.19・189。典拠は『公衡公記』正和4年4月16日条に掲載の「施薬院使丹波長周注進状」。
  3. ^ 正和3年(1314年10月24日付の醍醐寺報恩院主隆勝による弟子・隆舜の挙状の宛名部分にある「諏方左衛門入道殿」は直性のことを指しているものと推測される(細川、2000年、P.189-190)。
  4. ^ 細川、2000年、P.193-194。
  5. ^ 細川、2000年、P.194。
  6. ^ 細川、2000年、P.195。
  7. ^ a b 武家年代記裏書』正安3年(1301年正月22日条に「時基貞時女 宗経養君逝去。」とある。また、諏訪盛重等、得宗被官の有力者が得宗の子女の乳母夫になった例は多数あったことから、宗経もそうであった可能性が高いとみられている。以上の見解も細川による。
  8. ^ 宗経が北条時宗が得宗の座にあった期間内(1263年-1284年)に元服していることもこれを裏付けていると言える。
  9. ^ 例えば『系図纂要』では直性を宗経の次男・弘重に比定している(但し、同系図では弘重の剃髪号を「直情」ママとしている)が、細川曰く、弘重の官職である左馬助(左馬介)が『太平記』にある「諏訪左馬介入道」(左衛門を左馬介と誤写)を根拠としていることから、この系図は信ずるに値しないとしている。
  10. ^ 細川、2000年、P.195。
  11. ^ 細川、2011、75頁。『小笠原礼書』「鳥ノ餅ノ日記」徳治2年(1307年)7月12日条に「諏訪左衛門尉宗秀」とある。
  12. ^ 『太平記』に鎌倉幕府滅亡後に北条時行を奉じて信濃に逃れた人物として見られる。「高」の字は北条高時(時行の父)から受けたものか。
  13. ^ 細川、2000年、P.191-193。


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