長崎氏とは? わかりやすく解説

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長崎氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 03:01 UTC 版)

長崎氏(ながさきし)は、鎌倉時代北条氏得宗家の御内人[1]であり、鎌倉幕府御家人桓武平氏と称して、得宗被官である同族とされる平氏についてもこの項で扱う。


注釈

  1. ^ 『吾妻鏡』に記載される18騎は、北条時氏(泰時長男)、北条有時(義時四男)、北条実義(義時六男)、尾藤景綱(左近将監)、関実忠(判官代)、平盛綱(兵衛尉)、南条時員、安東藤内(左衛門尉)、伊具盛重、武村次郎(兵衛尉)、佐久間家盛、葛山小次郎、勅使河原則直、横溝資重、安藤左近将監、塩河中務丞、内島忠俊に泰時を加えた18騎。
  2. ^ この系図では関実忠と平盛綱を兄弟としている。また、大田南畝編『家伝史料』(『史籍雑纂』三)所収「関家筋目」も同様の傾向を示したものである。
  3. ^ 細川重男は「……平将軍貞盛ヨリ十三代」までは高時までの系譜を語ったものであり、高重自身の家系については祖父にしか触れておらず、資盛後胤説が叫ばれていないものと解釈している[3]。しかし『尊卑分脈』から高時は貞盛から16代目にあたり、貞盛から13代目というのは円喜のことを指すことが明白であるため、細川説とは正反対で、高重が平資盛の後胤を称していたことが分かる[4]
  4. ^ 正安3年(1301年3月3日付「関東下知状」(『鹿島神宮文書』)から、「新平三郎左衛門尉盛貞」の所領である常陸国佐都東郡大窪郷が平禅門の乱に伴って収公されていることが窺える[7]。(細川 2000, p. 178)にこのことについての言及がある。
  5. ^ 『小笠原礼書』「鳥ノ餅ノ日記」徳治2年(1307年7月12日条に「長崎左衛門尉盛宗」とある[9][10]

出典

  1. ^ a b c d 奥富 1989, p. 573.
  2. ^ 細川重男 2002, p. [要ページ番号].
  3. ^ a b 細川 2000, §. 得宗家執事長崎氏.
  4. ^ 森 2008, p. [要ページ番号].
  5. ^ 森 1998, p. [要ページ番号].
  6. ^ 細川 2000, p. 424.
  7. ^ 細川 2000, p. 178.
  8. ^ 奥富 1989, p. 573; 北条氏研究会 2001, p. 117, §. 長崎思元(森幸夫著)
  9. ^ 細川 2011, p. 73.
  10. ^ 細川重男 2012, p. [要ページ番号].
  11. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1920, pp. 3, 18.
  12. ^ 大日本古文書』第8巻『毛利家文書之一』4号 「毛利貞親自筆譲状」、15号「毛利元春自筆事書案」[11]
  13. ^ 森 1998.





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