その後の貞時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 10:05 UTC 版)
乱の後、貞時は寄合にも評定にも出席しなくなり、乱の3年後の1308年(徳治3)8月の「平政連諫草」には、「天下の珍事国中の大体は併せて成敗にあり、怠慢なかるべし、随ってまた評定の大事はなを御出仕をまつ」「毎月御評定の内五ケ日、御寄合二ケ日奏事六ケ日ばかりは、闕かさず御勤仕あらんの条、強いて窮屈の儀なからんか」とあり、貞時に対して幕政への精励を要請、というよりも苦言を呈している。その中に「早相止連日酒宴、可被催暇景遊事」と貞時が政治への関心を失い酒に明け暮れていた様を知ることができる。 こうして貞時が平頼綱を滅ぼして以降築いてきた得宗による専制的な体制は崩壊する一方、最高権力者であるはずの貞時が政務を放棄しても北条氏庶家・長崎氏らの御内人・外戚の安達氏などの寄合衆らが主導する寄合によって幕府は機能しており、得宗も将軍同様形式的な地位に祭り上げられる結果となった。貞時は乱の6年後に41歳で死去し、幼い息子の高時が得宗家の家督を継ぐが、高時は得宗として主導権を発揮する機会もない形式的な存在のまま、元弘3年(1333年)の元弘の乱による鎌倉幕府の滅亡の時を迎えることになった。長崎氏や安達氏の政治は得宗時代の先例をひたすら踏襲し、一般御家人の生活に目を向けるものではなかったため、政治の中身は無くなり、時代に適応できぬまま矛盾を深め、鎌倉幕府の力は衰えた。
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