その後の貴族院改革
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「1999年貴族院法」の記事における「その後の貴族院改革」の解説
詳細は「貴族院改革(英語版)」を参照 「2010年憲法改革及び統治法」も参照 労働党政府は貴族院法制定以降も92人の世襲貴族枠を廃止すべく改革の第二段階を主張したが、三次にわたるブレア政権でもその目標を達成することは出来なかった。そのブレアの後を継いだ労働党党首ゴードン・ブラウンは首相に就任するとともに、2007年5月9日に憲法事項省(英語版)に代わる司法省を設置した。その長たる司法大臣(英語版)兼大法官にはファルコナー卿(英語版)、ついでジャック・ストローが就任し、引き続き彼を中心として貴族院改革がすすめられた。 2008年7月にストロー司法相によって白書『公選の第二院―貴族院の更なる改革』が上梓されたものの、翌年に生じた議員経費問題が英国政界を大きく揺るがしたため、改革は急速に下火となるとともに、ブラウン自身も求心力の低下を招いた。 政権末期となる2010年に入ると、ブラウンは再び世襲貴族の排除に言及するとともに、憲法改革及び統治法案を提出した。同法案には①貴族院補充選挙の廃止、②重大な違法行為をした貴族院議員の除名または登院停止、③貴族院議員の辞職に関する規定が盛り込まれていたが、審議の過程で一連の部分は削られてしまい、これらを除いた部分が同年4月の議事一掃期間に成立した。
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