その後の軍歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 15:49 UTC 版)
「ジョゼフ・キッティンジャー」の記事における「その後の軍歴」の解説
キッティンジャーはベトナム戦争に3回にわたって従軍し、合計483回の飛行任務をこなした。1回目と2回目の従軍のときは、ダグラスA-26インヴェーダーおよび「オンマーク・エンジニアリング」改良型のB-26「カウンター・インヴェーダー」の機長として、ファーム・ゲート計画およびビッグ・イーグル計画に参加した。2回の任務を終えて帰国した後、彼は直ちにマクダネル・ダグラスF-4ファントムIIに機種転換した。志願して行った1971年から翌年に掛けての3回目のベトナム従軍では、彼はF-4D ファントムIIに搭乗し、第555戦術戦闘飛行隊(555TFS、「トリプル・ニッケル」として有名な部隊)を指揮した。その後、第432戦術偵察航空団の副司令としても勤務した。この期間中、北ベトナムのミグ21を撃墜する戦果を挙げている。 キッティンジャーは3回目の従軍期間が終わろうとする直前の1972年5月11日に撃墜された。キッティンジャー中佐は戦術士ウィリアム・J・ライク中尉とともにF-4D(シリアル66-0230)に搭乗し、1機のミグ21戦闘機と戦いながら、北ベトナムのタイ・グエン村北西およそ5マイルの地点を飛行していた。キッティンジャーとその編隊機はミグ21を追っていたが、キッティンジャー機の右翼に空対空ミサイルが当たり、機は損傷を受けて炎上した。キッティンジャーとライクは脱出したが、すぐにタイ・グエンから数マイルのところで捕らえられ、ハノイ市に連行された。彼らが追っていたミグ21はそのすぐ後にキッティンジャーの僚機であったS・E・ニコルズ大尉の機に撃墜された。 キッティンジャーとライクは捕虜として「ハノイ・ヒルトン」収容所で11ヵ月を過ごした。キッティンジャーはそこの新しい(1969年以後に捕らえられた)捕虜の最先任士官であり、ジョン・D・シャーウッドの本("Fast Movers")によれば、彼はそのリーダーシップについて捕虜仲間と対立していたということである。彼は、捕虜にさらなる拷問が加えられるような事態を避けるため、血の気の多い下級士官を自らの指揮権の下にとどめておこうとした。キッティンジャーは捕虜居住区域に着いてすぐに「ロープの拷問」を経験しており、そのことが彼にずっと影響を与えていた。キッティンジャーとライクは1973年3月28日にアメリカの手に戻され、空軍での勤務を続けた。キッティンジャーはその後まもなく大佐に昇進した。
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