初期の作戦(1861年6月-1862年1月)
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「西部戦線 (南北戦争)」の記事における「初期の作戦(1861年6月-1862年1月)」の解説
西部戦線の初期は2つの州、ミズーリ州とケンタッキー州に焦点が置かれた。どちらを失ったとしても北軍にとって重大な足かせになるはずだった。1861年6月にナサニエル・ライアン大尉がブーンビルの戦いで勝利したことが大きく、ミズーリ州は北軍が確保した。ケンタッキー州の場合、南軍寄りの知事と北軍寄りの議会という事情もあり、中立を宣言していた。この中立は、9月3日に南軍のレオニダス・ポーク少将がケンタッキー州コロンバスを占領したことでまず破られた。コロンバスはミシシッピ川下流を抑えるための要衝と考えられた。その2日後に北軍のユリシーズ・グラント准将がその後の軍歴を特徴づけるような個人的独創性を発揮して、パデューカを占領した。この時点からは両軍ともケンタッキー州の中立を尊重しなくなった。この事件の流れは、ケンタッキー州が公式に南軍に付くことが無かったことと、もし北軍がケンタッキー州内での作戦行動ができなければその後のテネシー州での成功はもっと難しいものになったであろうことを考えれば、北軍の勝利と考えられる。 南軍の側では、アルバート・ジョンストン将軍がアーカンソー州からの全軍を指揮し、カンバーランド地峡に進軍した。ジョンストン軍は数的に劣勢な軍隊で広い前線を守るという難題に直面したが、横の連絡を取り合う優れた仕組みがあったので、その軍隊を必要な所へ素早く動かすことができた。またポークとウィリアム・J・ハーディという二人の有能な部下の将軍がいた。また、ラッセルビル会議で設定された南部の新しい州都ボウリング・グリーンを通じて、ケンタッキー州中部と西部の郡にいる連邦脱退支持者からの政治的な支援もあった。そこの臨時政府は南部政府にも認められ、1861年12月にはアメリカ連合国への加盟を認められた。モービル&オハイオ鉄道という手段を使って、ポークはコロンバスの南軍基地を素早く要塞化し装備を調えた。 西部戦線の北軍は統一された指揮系統が無いために苦しんだ。1861年11月に組織されたものは3つの方面軍に別れていた。デイビッド・ハンター少将のカンザス方面軍、ヘンリー・ハレック少将のミズーリ方面軍およびドン・カルロス・ビューエル准将(ウィリアム・シャーマン准将の後任)のオハイオ軍であった。1862年1月まで、西部戦線における戦略的な展開は何一つ合意されず、指揮系統の欠如は明らかであった。ビューエルは東テネシーに侵入し北軍寄りのその地を確保し、緩りとナッシュビルの方向に進んだが、ジョージ・ヘンリー・トーマス准将がミル・スプリングスの戦いで小さな勝利を挙げた他はその目標に対してなんら実質的なことは出来なかった。ミル・スプリングスでの勝利は、南軍の西部防衛線を破壊し、カンバランド峡谷への道が開かれたので戦略的な勝利の意味合いもあるが、それでもビューエルはナッシュビルに近付けなかった。ハレックの方面軍では、グラントがテネシー川を遡ってビューエルの進行から注意を逸らす動きしたが、ビューエルは進まなかった。2月1日、ハレックはテネシー川のヘンリー砦に向けてグラントが進軍することを認めた。
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初期の作戦(1861年)
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「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「初期の作戦(1861年)」の解説
1861年4月、サムター要塞の陥落後、両軍共に軍隊の創出で大わらわであった。エイブラハム・リンカーン大統領は反乱軍を抑えるために75,000名の志願兵の召集を命令し、これが即座にバージニア州を含む4つの州の脱退に繋がった。アメリカ陸軍には当時16,000名の兵士しかおらず、その半分以上は西部に散らばっていた。陸軍は米英戦争と米墨戦争の古参兵である年長のウィンフィールド・スコット中将に指揮されていた。アメリカ連合国の方は、一握りの連邦軍士官と兵士が退役して南軍に加わった。連合国軍の体系は当初各州によって整えられた。(強い中央政府に対する各州の嫌悪感で助長された連合国防衛軍の分散した性格は戦争の間の南軍の弱みの一つでもあった。) 最初の敵対的行動の幾つかはバージニア州西部(現在のウエストバージニア州)で起こった。ジョージ・マクレラン少将がオハイオ軍管区(Department of the Ohio)の部隊を指揮し、グラフトンから行軍を命じてジョージ・ポーターフィールド大佐の指揮する南軍を攻撃した。1861年6月3日、フィルーピーの戦いあるいはフィルーピーの競走と呼ばれる小競り合いは、この若い将軍を大衆が認識する以上の大した意味は無かった。7月に入ってリッチマウンテンの戦いで勝利し、マクレランに昇進の機会が訪れ、ポトマック軍の指揮官となった。この作戦で小さな戦闘が続いている間、ロバート・E・リー将軍は元アメリカ陸軍の有能な大佐という評判にも拘わらず、戦闘に関わることがなく、ぱっとしない成果によって「リーばあさん」という見下したような渾名まで頂戴した。リーは間もなくカロライナで要塞を築くために転出した。 この戦争での最初の重要な戦闘は6月10日にバージニア州東部で起こった。北軍のベンジャミン・バトラー少将はモンロー砦に駐屯しており、ハンプトンとニューポートニューズからの合流部隊を南軍の前線基地の攻撃に送った。モンロー砦近くのビッグベセルの戦いでジョン・マグルーダー大佐が南軍としては初めての勝利を掴んだ。
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初期の作戦
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1948年9月、中国共産党中央は西柏坡で政治局拡大会議(九月会議)を召集開催し、ほぼ5年以内に「国民党の反動統治を徹底的に打倒する」と決定し、このため、核戦略区に第2次国共内戦の第3年に更に大規模な殲滅戦を行う準備を要求した。 華北軍区第1副司令員兼第1兵団司令員及び政治委員徐向前は病気を抱えながら、管轄下の第8縦隊、第13縦隊、第15縦隊、西北野戦軍第7縦隊並びに華北軍区砲兵第1旅団及び地方部隊の各独立旅団合計8万人余を指揮した。1948年9月28日、華北野戦軍第1兵団の周士弟、陳漫遠は連名で「太原進攻の戦術追加指示」を指揮下部隊に発し、併せて軍事委員会に報告を上げた。前線指揮員の周士弟の予定では、10月18日に太原への攻撃を開始し、外郭、城壁及び太原城の三段階に分けて連続して進攻するとした。 閻錫山は済南戦役で衝撃を受けていて、守勢に立つ代わりに攻勢に出ることとし、10月初め7個師団の兵力を工事から離し積極的に出撃させ、武器食糧を拡充した。徐向前は3日の電信により中国共産党軍事委員会の当該部隊をすべて殲滅せよという決定を受けた。10月5日、華北野戦軍第8縦隊(王新亭)、第13縦隊(韋傑)は城南の閻錫山軍に進攻を開始した。小店で第8縦隊は暫編第44師団の大部分の部隊と暫編第45師団の一部を殲滅し、第44師団師団長李之得を捕虜とした。南黒窯、南畔村で第13縦隊は暫編第45師団の残りの部隊と親訓師団の一部を殲滅し、第45師団師団長鄭継国を捕虜とした。 10日、解放軍は太原飛行場と北営駅を占領した。同日、病気中の徐向前は石家荘から前線司令部に移動した。徐向前は前線司令部に到着すると直ちに「太原城地区の進攻にあたっては、まず城東の群山防衛線を攻略する必要があり、断固として牛駱寨、小窯頭、淖馬、山頭の四大要点を占領し支配下におく必要があり、この線はまた、閻錫山のいうところの「第二の堅固な防衛線」である。」との指示を出した。徐向前は、「南北両方向から、直接東山の四大要塞に割って入れば、この南北8キロメートルと長い陣地も太原と東山主峰の中間で必ず分断できる。」と考えていた。 15日になり、人民解放軍は完全に太原東南部の要害の高地である石嘴子陣地と和城東北の重要拠点風閣梁などを制圧した。太原戦役の初期の作戦で、解放軍は太原城の第1次防衛線を突破した。東城防御体系の南北に穴が開けられ、守備軍の外部からの航空援助は断絶することとなった。
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