特徴、評価と就役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 20:45 UTC 版)
「第一大福丸型貨物船」の記事における「特徴、評価と就役」の解説
第一大福丸型貨物船の建造に際し、川崎造船所では既存の貨物船をタイプシップとした。タイプシップとなったのは大阪商船の志やむ丸型貨物船である。志やむ丸型貨物船との主な相違点としては、まずは第一大福丸型貨物船ではイシャーウッド式船体構造(英語版)を採用している点である。イシャーウッド式船体構造は使用鋼材が少なく済む割に構造が堅牢で、工期が短くコストが抑えられるなどの特徴を有し、1915年からは大阪鉄工所が日本での製造および販売の独占権を持っていた。独占権の締結は「第一大福丸」の起工に先立っているが、川崎造船所と大阪鉄工所との間に使用権料の諸交渉があったかどうかは不明である。いずれにせよ、イシャーウッド式船体構造の採用によって工期は短く、使用鋼材も少なくすむこととなり、これに工員の熟練度の上昇なども合わさって、ついには「来福丸」のように30日で完成する船も出現することとなった。また、船体寸法は志やむ丸型貨物船とほぼ同一であるが、志やむ丸型貨物船が遮浪甲板を有しているのに対して第一大福丸型貨物船は平甲板型で、満載吃水も第一大福丸型貨物船の方が深かった。満載吃水の増加は耐荷重量の増加にもつながっており、平均で約1,227トンも増加していた。重量トン数も大きく見せることが出来、売買上は川崎造船所側に有利になるとみられていた。 しかし、第一大福丸型貨物船のキャパシティは船型と比較すると大きすぎ、また平甲板型を採用したため耐波性に難があった。上層甲板のみに特設肋骨を配していた志やむ丸型貨物船に比べて、上層甲板のほかに下層甲板にも特設肋骨を配して強度を与えていたにもかかわらず、外洋での航海で船体が損傷する例も多々あった。「来福丸」は積荷の変位でバランスが崩れて横転沈没したが、キャパシティが船型と比較して大きすぎたがゆえの事故かどうかは不明である。 第一大福丸型貨物船は「当社の造船史に新しいエポックを画した」ことは間違いないが、同時に昭和金融恐慌で川崎造船所が一時経営破たんした要因の一つともなった。第一次世界大戦の終結で75隻の第一大福丸型貨物船を含む96隻のストックボートの大半は売れ残り、川崎造船所ではストックボートを自社運航船として運用したほか、川崎汽船や国際汽船を設立して消化を図ろうとした。しかし、あまりの大船腹をもてあまして海外に活路を求めたりしたものの、所詮は「川崎」という手のひらの中でやりくりをしているようなものであった。やがて国際汽船の経営危機と川崎系企業からの離脱、松方の退陣、そして川崎造船所の経営破たんにいたる。ひいては、「量」を求めて「質」を求めなかった結果、民間船建造の分野では三菱長崎造船所など他の有力な大造船所に一歩後れを取る結果にもなった。 太平洋戦争では、日本に残った第一大福丸型貨物船は一部が日本陸軍や日本海軍に徴傭され、南方作戦など初期の作戦に投入されたが、1945年(昭和20年)5月12日に沈没した「智利丸」と「伯剌西爾丸」を最後にすべて姿を消した。海外に移った第一大福丸型貨物船の消長についてはすべて判明しているわけではないが、イギリスを経てフランスに移った3隻のうち、「第三大福丸」として建造中にイギリスに引き渡された "War Queen" がギリシャ船籍 "Cleophie Ioanna" となったのち、1954年に解体された。判明している中では、"War Queen" が第二次世界大戦を乗り越えた唯一の第一大福丸型貨物船である。
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