イギリス海外派遣軍との初期の作戦
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「イギリス陸軍航空隊」の記事における「イギリス海外派遣軍との初期の作戦」の解説
戦争開始時点で第1飛行隊は気球を装備していたが、第2、第3、第4および第5の4個飛行隊には飛行機が配備されていた。 RFCの最初の犠牲者が出たのは部隊がまだフランスに到着する前のことだった。1914年8月12日、ロバート・R・スキーン中尉とレイ・バーロウ機上整備員の乗った飛行機は、おそらく過荷重のために、ドーバー付近でのRFC部隊との会同に向かう途中で墜落した。スキーンは飛行機で宙返りを行った初めてのイギリス人だった。 1914年8月13日、第2、第3および第4飛行隊に属する60機の飛行機は、フランスのイギリス海外派遣軍(BEF)に向けてドーバーを発進した。第5飛行隊も数日後に加わった。彼らはイギリス海峡をドーバーからブローニュ=シュル=メールまで横断するコースを取った。そしてそこからソンム湾までフランス沿岸部を進み、アミアンまで川をたどって内陸に入った。BEFがモブージュに前進するとRFCもそれに同行した。 8月19日、RFCは2機をもって大戦最初の任務である航空偵察を行ったが、大成功とは言いがたいものだった。2機は重量を切り詰めるために通常パイロットと観測員を乗せるところをパイロットのみで飛び立ち、それに悪天候も加わって2機ともコースを見失ってしまった。かろうじて任務を果たしのは1機だけだった。 4日後の1914年8月23日、RFCはモンスの戦いで初めて戦闘に参加した。そしてその2日後、空中での最初の勝利を得た。8月25日、C・W・ウィルソン中尉とC・E・C・ラバグリアティ中尉は、彼らが自分たちのアブロ機に燃料補給しているときに飛行場に接近したドイツのエトリッヒ タウベを強制着陸させた。別のRFC機が近くに着陸し、その観測員が近くの林までドイツ機のパイロットを追いかけた。 1914年8月22日、L・E・O・チャールトン大尉(観測員)と彼のパイロットであるビビアン・ヒュー・ニコラス・ウォダム中尉は、イギリス大陸派遣軍の側面に回りこもうとするドイツ第1軍の動きを目撃した。それによりBEF最高司令官サー・ジョン・フレンチ元帥はモンス付近における自軍の正面を編成し直し、備えることが出来た。 イギリスがモンスから退却すると、RFCもマルヌに後退した。その9月、RFCは、むき出しのフランス軍側面に対するフォン・クルックのドイツ第1軍の左旋回を確認することによって、再びその価値を証明した。第1軍の運動に関するこの情報は極めて重要で、これによってフランス軍の効果的な反撃が可能になり、またモンスのイギリス陸軍も包囲を免れることができた。 イギリス大陸派遣軍司令官サー・ジョン・フレンチによる9月7日付の最初の公式報告には、以下のように書かれている。 「小官は諸卿に対し、特に、サー・デヴィツド・ヘンダーソン指揮下のイギリス陸軍航空隊によってなされた賞賛に値する業績について述べるものである。彼らの技術、活力そして忍耐はすべて、いかなる栄誉をもってしても称えきれるものではない。彼らは小官に極めて完全かつ正確な情報を提供し、それは作戦指揮に当たって計り知れない価値をもつものであった。彼らは、絶えず敵味方双方の砲火を浴びながらも、いかなる天候にあっても飛行を躊躇せず、その勇敢さを失うことはなかった。のみならず、実際に空中で戦うことによって、彼らは敵の飛行機の5機を破壊することにさえ成功した。」
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