イギリス海兵隊、ウィリアム・マーティン少佐
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「ミンスミート作戦」の記事における「イギリス海兵隊、ウィリアム・マーティン少佐」の解説
著名な病理学者であるサー・バーナード・スピルズベリーの援助の下に、モンタギューとそのチームは、彼らが必要としている死体を「男性で海中で低体温症に陥り溺死し、数日後に沿岸に流れ着いた」ように見えるものと決定した。しかし、このように都合のよい死体を見つけ出すことはほとんど不可能な様に見えた。目立たないように調査してもうわさ話を引き起こすであろうし、死者の親族に何のために遺体が必要であるかを説明することは不可能であった。しかし1943年2月に、密かなプレッシャーの下で、セント・パンクラス(St. Pancras District in London)の検視官であったベントリー・パーチェス(Bentley Purchase)が、真の身上は決して明かさないという条件の下で、34歳の男性の死体を入手することに成功した。この男は、殺鼠剤を嚥下した結果、化学物質によって引き起こされた肺炎が原因で死亡した。そのため、肺の中には滲出した体液が溜まり、海で死亡した状態と整合が取れていた。サー・バーナードと同程度に有能な病理学者はごまかせないであろうが、バーナードはスペインにはそのような人物はいないと保証した。 次のステップは死んだ男の身上を創造することだった。彼はイギリス海兵隊(ロイヤル・マリーン ; Royal Marines)ウィリアム・マーティン大尉 (少佐心得 : Acting Major)、1907年ウェールズのカーディフ生まれ、イギリス軍統合作戦司令部 (Combined Operations Headquarters) 所属ということにされた。イギリス海兵隊員として、彼は海軍本部の指揮下にあり、彼の死に関する全ての公的な照会とメッセージが海軍情報部へのルートに乗せられるように保証することは容易であった。陸軍の指揮系統は異なっており、統制するのはもっと困難であった。 また、彼は海軍の軍服ではなく、戦闘服を着ることができた(軍服はサヴィル・ロウの Gieves & Hawkes 社のテイラーメイドであった。さすがに死体の寸法を測らせるわけにはいかなかった)。少佐心得という階級は微妙な性質の書類を託されるには十分上級であるが、誰もが彼を知っているというほど傑出したものでもない。マーティンという名前は、イギリス海兵隊のほぼ同じ階級に数人の同名者がいたために選ばれた。 彼らは伝説を創り上げるために、パムという婚約者まで創り出した。マーティン少佐は、パムの写真(実際はMI5の事務職員)、2通のラブレター、宝石店のエンゲージリングに対する請求書を携帯していた。彼はさらに父親からの仰々しい手紙、事務弁護士(ソリシター)からの手紙、Lloyds 銀行からの79ポンド19シリング2ペンスの貸越金に対する督促状も持っていた。また、ロンドンの劇場のチケットの半券、海軍軍人クラブでの4泊分の勘定書、Gieves & Hawkes 社の新しいシャツについての領収書もあった(この最後のものはエラーであった。これは現金払いに対するものであったが、士官が Gieves に現金で支払うことはあり得ない。しかしドイツ軍はそこまでは知らなかった)。これらの書類は正規の文具または請求書綴りを使用して作成された。チケットの半券の日付と宿泊の勘定書はマーティン少佐が4月24日にロンドンを離れたことを示していた。もし、彼の死体が4月30日に漂着したのであれば、数日間海中にあったことになり、イギリスから飛び立ち海中墜落したに違いないということになる。 少佐の存在をさらにもっともらしくするため、モンタギューと彼のチームは、マーティン少佐が幾分軽率な性格であることを暗示することに決めた。彼の身分証(写真はたまたま死体と風貌の似ていた海軍士官を撮影して使用した)は紛失したものに対する再発行であり、統合作戦司令部へのパスは、彼の出発の数週間前に期限切れになったまま更新されていない。この仕上げの一筆は、そのような軽率な男に微妙な書類が託されるだろうかという疑念をアプヴェーアに持たせる可能性があり、リスクの要素も含んでいた。
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