べいぼく‐せんそう〔‐センサウ〕【米墨戦争】
読み方:べいぼくせんそう
米墨戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/22 10:26 UTC 版)
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米墨戦争 | |
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![]() ベラクルス包囲戦 | |
戦争:米墨戦争 | |
年月日:1846年4月25日 – 1848年2月2日 | |
場所:テキサス州、ニューメキシコ州、カリフォルニア州、メキシコの北、中、東部、メキシコシティ | |
結果:アメリカ合衆国の勝利、グアダルーペ・イダルゴ条約の締結とメキシコ割譲 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
ジェームズ・ポーク ザカリー・テイラー ウィンフィールド・スコット スティーブン・W・カーニー |
アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ マリアノ・アリスタ ペドロ・デ・アンプディア ホセ・マリア・フローレス |
戦力 | |
78,700名 | 25,000–40,000名 |
損害 | |
戦死1,733名 死者総数13,271名 負傷4,152名 少なくとも9,200名が脱走または亡命[1] |
戦死兵士5,000名 民間人死者800名 病死については不明[2] |

米墨戦争(べいぼくせんそう、英語: Mexican-American War, スペイン語: Guerra Mexicano-Estadounidense)は、1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ合衆国の間で戦われた戦争。アメリカ・メキシコ戦争とも呼ばれる[3]。
アメリカ合衆国においては、メキシコ戦争(英語: Mexican War)として知られている。メキシコにおいてはアメリカ合衆国のメキシコ介入(スペイン語: Intervención Estadounidense en México, 英語: American Intervasion of Mexico)、アメリカ合衆国の対メキシコ戦争(英語: United States War Against Mexico)、北部の侵略戦争(英語: War of Northern Aggression)として知られている[注釈 1]。[要出典]
背景
テキサスの帰属をめぐってのアメリカとメキシコとの衝突に起因する。
スペインから独立革命を経て独立したメキシコは、第一帝政と共和制の時代を通じて、北部の領土を保持していた。しかし、メキシコは長期化した独立革命により、統治するための人的・金銭的余裕を失っていた。一方で、北部の領土では16世紀からネイティブアメリカンによる反乱が継続的に発生しており、また1803年のルイジアナ買収によって西部への開拓を開始しやすくなった多くのアメリカ人が、メキシコ領北部に流入していた。
テキサス併合
アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナによる中央集権体制(メキシコ共和国)は、各地での反発を招き、各地で独立の機運が発生した。1836年、アメリカからの不法移民が多数を占めていたテキサス共和国がメキシコからの独立を宣言すると、1839年にフランス、1840年にオランダとイギリス、1841年にベルギーがテキサス共和国を承認した。さらに1845年にテキサス共和国はアメリカに併合された。しかし、メキシコ政府は、テキサス共和国の独立・アメリカ合衆国のテキサス併合についても当然ながら認めなかった[注釈 2]。
アメリカはこの地域におけるイギリスの野心を断ち切るために、太平洋岸のカリフォルニアに自国の港を持ちたかった。このためテキサス併合と同じ年、時のアメリカ大統領であったジェームズ・ポークはジョン・スライデルを全権とした交渉団を送り[3]、メキシコ領カリフォルニアおよびヌエバメヒコを購入したいと申し出た[4]。しかし当時のメキシコ国内は混乱が続いており、例えば1846年の1年間だけで大統領は4回、戦争大臣は6回、財務大臣にいたっては16回の交代が行われ、交渉団を迎え入れた大統領のホセ・ホアキン・デ・エレーラは反逆罪で訴えられ追放されるなど、交渉どころではなかった。メキシコ国内の世論も、買収の申し出に対して猛反発した。そして、新たに大統領に就任したマリアノ・パレーデス・アリリャガによって国家主義的色合いの強い政府が成立したのを見届けた交渉団は引き揚げた。
勃発
テキサスを併合したアメリカは、メキシコとの国境をリオグランデ川(Rio Grande)以北としていた。一方、メキシコは同様にリオグランデ川の北側を流れるヌエセス川(Nueces River)以南としており、両国の主張には相違があった。アメリカ大統領ジェームズ・ポークは、アメリカ側の主張するテキサス州の土地を確保するよう軍に命じた[3]。これを受けたザカリー・テイラー将軍率いる軍隊はヌエセス川を南に超えて、メキシコからの非難にもかかわらずブラウン砦(Fort Brown)を築いた。1846年4月24日にメキシコの騎兵隊がアメリカの分遣隊を捕らえたことから戦闘状態となった。パロアルト(Palo Alto)およびレサカ・デ・ラ・パルマ(Resaca De La Palma)での国境衝突および戦闘の後に、アメリカ連邦議会は5月13日に宣戦を布告した。南部出身者と民主党員がそれを支持した一方で、北部出身者とホイッグ党員の多くは開戦宣言に反対した。対するメキシコは5月23日に宣戦を布告した。
アメリカ側の宣戦布告後、アメリカ軍はロサンゼルスを含むカリフォルニアのいくつかの都市を占領した。モンテレーの戦いは1846年9月に起こった。1847年2月22日、ブエナ・ビスタの戦いでテイラー将軍がアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍麾下のメキシコ軍を破り、アルタ・カリフォルニアとヌエバメヒコの占領を確実なものにした。ウィンフィールド・スコット将軍配下のアメリカ軍は、海上から大西洋岸のベラクルスを攻略、引き続きメキシコ中部のセロゴルドへと進撃し、9月14日にメキシコシティ[3]の中心部チャプルテペク城も攻め落とした[注釈 3]。
終結
1847年1月13日に調印されたカフエンガ条約で、アメリカはカリフォルニアでの戦いを終了した(カリフォルニア征服)。1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約[3]では戦争を終結させて、アメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半にテキサスと同様の管理権を与えることが定められた。これに対し、アメリカは1,825万ドル(現金1,500万ドル[4]と債務放棄325万ドル)を支払った。
この割譲により、メキシコは国土の三分の一を失った。これによる国民の不満もあり、1864年8月22日には政権が交代し、また中央集権国家のメキシコ合衆国に戻ることになる。これらの土地は不毛の砂漠地帯であったが、翌1849年にカリフォルニアのサクラメントでゴールドラッシュが起こり、さらに後の20世紀前半にはテキサス州で無尽蔵と言われた油田が発見され、石油ブームが起こることになる。
戦闘員
アメリカ軍はこの戦争で約13,000名の死者を出したが、このうち戦死したのは約1,700名で、その他のほとんどは黄熱などの感染症による犠牲者であった。対するメキシコ軍の死傷者は25,000名ほどと見られている。
この戦争は、米墨両国の銃火器の差が顕著でそれが戦闘の帰趨に大きな影響をもたらしたと言われている。メキシコ軍がナポレオン戦争で使用された一世代前のイギリス製小銃を装備していたのに対して、アメリカ軍は最新の国産ライフル銃を使用した。
この戦争で、特筆すべき点の一つとして聖パトリック大隊(サン・パトリシオス)の存在がある。メキシコを支持してアメリカ軍籍を放棄した約500名の元アメリカ兵によって構成され、その多くはアイルランド生まれ(アイルランド系移民)であった。この元アメリカ兵たちの多くはチュルブスコの戦いの結果、アメリカ軍に降伏し捕虜となったが、スコット将軍は彼らを脱走兵として処断、メキシコシティ陥落時に一斉処刑した。この事件については歴史家の間でも意見の対立がある。すなわち、彼ら聖パトリック大隊員を捕虜だったとする意見と、逆に反逆者あるいは脱走兵だったと主張する意見が対立している。前者を採った場合、スコットが命じた処刑は捕虜虐殺となり、重大な戦争犯罪にあたる。一方、後者を採用した場合は、スコットの行為は正当で違法性はないものとなる。なお、メキシコにおいて聖パトリック大隊は英雄として扱われ、各地に多くの記念碑がある。
またスティーブン・W・カーニー将軍とカリフォルニアへの行軍を共にしたモルモン大隊は、ソルトレイクシティのモルモン教徒で構成された、アメリカ軍の歴史の中で唯一の「宗教の」部隊として知られる。モルモン大隊はユタ州へのモルモン教徒の移住を助けるために組織された。
アメリカ退役軍人協会からのデータによれば、米墨戦争に従軍した兵士の最後の生き残りであるオーウェン・トマス・エドガー(Owen Thomas Edgar)は1929年9月3日に98歳で死去した。
関連作品
映画
- ワン・マンズ・ヒーロー(1999年、アメリカ)
ボードゲーム
- Richard H.Berg 【Rough & Ready】,Strategy & Tactics No.212,Decision Games
- Halls of MONTEZUMA,GMT Games
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
- Library of Congress Guide to the Mexican War
- Intervención Norteamericana en México, an account of the war (in Spanish)from the Spanish Wikipedia.
- The Handbook of Texas Online: Mexican War
- Manifest Destiny and the U.S.-Mexican War: Then and Now
- The Mexican War
- Mexican War Resources
- The Mexican War and the Media, 1845-1848
- Lone Star Internet
- PBS site of US-Mexican war program
- Treaty of Guadalupe Hidalgo and related resources at the U.S. Library of Congress
- Letters of Winfield Scott including official reports from the front sent to the Secretary of War
- Smithsonian teaching aids for "Establishing Borders: The Expansion of the United States, 1846-48"
- Franklin Pierce's Journal on the March from Vera Cruz
- A History by the Descendants of Mexican War Veterans
米墨戦争(1846年〜1848年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 03:09 UTC 版)
「ニューメキシコ州の歴史」の記事における「米墨戦争(1846年〜1848年)」の解説
米墨戦争中の1846年、アメリカのスティーブン・W・カーニー将軍と第1竜騎兵連隊の300名の兵士、 ミズーリ山岳騎兵隊の第1および第2連隊の1600名、および500名のモルモン大隊は、サンタフェ・トレイルを行軍し、サンタフェに無血入城した。メキシコ人当局者らは有り金を全部持って南方へ逃走した後だった。カーニーは、タオスに住むサンタフェ・トレイルの交易商チャールズ・ベントを代理の民政長官に置き、軍民合同の政府を創設した。カーニーはまた、「カーニー・コード」と呼ばれる戒厳令を布告し、カーニーと合衆国陸軍の約束として、アメリカ合衆国は宗教と法的権利を尊重することを約束し、法と秩序を維持するとして市民を保護した。カーニー・コードは、準州の時代のニューメキシコの法令のベースのひとつとなった。 次に彼は、軍を4つの部隊に分割した。ひとつ目は、軍政府長官に任命されたスターリング・プライス大佐が率いる概ね800名の部隊で、ニューメキシコの占領を維持する。アレクサンダー・ウィリアム・ドニファン大佐率いる2番目の集団は、800名余の兵士と共に、メキシコ・チワワ州のエルパソを占領して、ウール将軍と合流するよう命令された。3つめは、カーニー自らが指揮する300人あまりの竜騎兵部隊であり、ラバに装備を取り付け、カリフォルニアに向かった。4番目はモルモン大隊で、彼らは徒歩でカーニーの部隊の後を追い、フィリップ・セント・ジョージ・クック中佐のもと、カリフォルニアまでの新しい南のルートが馬車の通れるものとするための作業を行った。 カリフォルニアでは、ジョン・C・フレモント中佐率いるカリフォルニア大隊のおよそ400人の兵士と、ロバート・ストックトンアメリカ海軍代将が率いるまた別の400人の海軍と海兵隊が、サンディエゴからサクラメントの間のおよそ7000人のカリフォルニア住民を統制していた。現在のアリゾナ州を含むニューメキシコ準州は、明白なアメリカの統制下にあった。カーニー部隊はその行軍中の10月、東に向かって移動中の探険家キット・カーソンが率いる一団に出会った。カーソンはストックトン代将とフレモント中佐から託されたポーク大統領へのカリフォルニア平定のメッセージを持参していた。カリフォルニア平定を知ったカーニーは、部隊300名のうち100名を残して200名あまりはサンタフェに返した。 ニューメキシコとテキサスの正確な境界線は不確かだった。テキサスは、まずはじめにリオ・グランデ川の北側のすべての土地が領地だと主張したが、その後ほぼ現在の境界に同意した。 カーニーがカリフォルニアに向けてニューメキシコを出発した後、タオスの反乱と呼ばれる衝突がタオス・プエブロで発生した。1847年1月19日、タオス・プエブロの反乱者たちは、代理長官のチャールズ・ベントをはじめとするおよそ10名の町に住む白人を殺害した。素早い反応を見せたアメリカ合衆国は、スターリング・プライス大佐と軍隊をタオスに向かわせ、レンガ造りの強固な教会に立てこもった反乱軍を攻撃した。教会への集中砲火で、およそ150人の反乱者が死亡し、400人以上が捕まった。6人の反乱の指導者たちは裁判にかけられ、1847年2月9日、絞首刑に処せられた。この反乱事件において、プライスはさらに二つの反乱を鎮圧し、2月中旬には反乱を統制下に収めた。ポーク大統領はプライスを名誉階級の准将に特進させた。死傷兵の合計は、300人の反乱者と30人の「アングロ」(アメリカ軍人と開拓者はしばしばこう呼ばれた)とされる。
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