テキサス共和国とは? わかりやすく解説

テキサス共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/06 07:57 UTC 版)

テキサス共和国
Republic of Texas
1836年 - 1845年
国旗 (国章)

共和国の版図
黄:実効支配地域
緑:領土権係争地域。
公用語 英語(事実上)。その他スペイン語フランス語、インディアン諸語などが話されていた
首都 オースティン
大統領
1836年 - 1838年 サム・ヒューストン
面積
1840年 1,007,935km²
人口
1840年 70,000人
変遷
建国 1836年3月2日
アメリカ合衆国への併合 1845年12月29日
通貨 テキサス共和国ドル英語版
現在 アメリカ合衆国
メキシコ
?テキサス共和国国旗 (1836 - 1839)
?テキサス共和国国旗 (1839 - 1845)

テキサス共和国(テキサスきょうわこく、Republic of Texas)は、メキシコ合衆国コアウイラ・イ・テハス州のうち現在の米国テキサス州の東部沿岸地方がテハス州として分離、その後独立して短期間(1836年 - 1845年)存在した共和国米国への併合により消滅した。この出来事をテキサス併合という。

概要

1834年までに、テキサスにはスティーブン・オースティンの仲介によって約750世帯の米国人入植者があった。入植者らが起こしたアラモの戦いをはじめとするテキサス独立戦争の末、1836年にテキサス共和国が成立、初代大統領にはテキサス軍を指揮したサミュエル・ヒューストンが選ばれた。1837年にアメリカ合衆国の承認を得て、1837年にはフランス、その後他の欧州各国に承認された[1]

メキシコは、テキサスがその独立の根拠であるとするベラスコ条約英語版自体が不当なものであるとして認めておらず、もちろん批准もしていなかった[1]。メキシコ国内の世論は「テキサス奪還」が強く、テキサス共和国の米国との合併も回避したかったが、国内情勢が不安定なメキシコにとってはそのための態勢を取るには至らず、戦費を調達することもままならなかった[2]。一方でイギリスフランスの両国は、米国との合併をしないという条件のもとでテキサス共和国を承認するようメキシコに勧めた[3]。特にイギリスは、アメリカとのオレゴン地域の領有権の争いに加えて、アメリカの国力増大を阻止したかった[3]。イギリスとしては、テキサス共和国は綿花などの一次産品の供給地として、また自国の商品の供給先として、魅力があった[3]

テキサス併合テキサス住民の総意[要出典]であり、また米国が望むことでもあった。1845年に28番目の州として米国に併合され、翌年からの米墨戦争のきっかけとなった[3]

首都

政権の長

テキサス革命期の知事

氏名 就任 退任
ヘンリー・スミス 1835年 1836年1月
ジェームズ・W・ロビンソン 1836年1月 1836年3月2日

テキサス共和国大統領

氏名 就任 退任
デイヴィッド・G・バーネット 1836年 1836年
サム・ヒューストン 1836年 1838年
ミラボー・B・ラマー 1838年 1841年
サム・ヒューストン 1841年 1844年
アンソン・ジョーンズ 1844年 1846年

脚注

  1. ^ a b 中野2010, p.26
  2. ^ 中野2010, p.27
  3. ^ a b c d 中野2010, p.28

関連項目

参考文献

  • 中野達司『メキシコの悲哀 大国の横暴の翳に』松籟社、2010年。ISBN 978-4-87984-289-3 

テキサス共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 07:29 UTC 版)

米墨戦争」の記事における「テキサス共和国」の解説

アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナによる中央集権体制メキシコ共和国)は、メキシコ各地での反発招き各地独立機運発生した1836年多くアメリカ人不法移民占領され、テキサス共和国がメキシコからの独立宣言すると、1839年フランス1840年オランダイギリス1841年ベルギーがテキサス共和国を承認した1845年にテキサス共和国はアメリカ併合されたが、メキシコ政府アメリカ合衆国テキサス併合はもちろん、テキサス共和国の独立さえ未承認であった独立根拠とするベラスコ条約英語版自体を「締結の経緯不公正なのである」として認めていなかった)。 アメリカはこの地域での英国野心断ち切るために、太平洋岸のカリフォルニア自国の港を持ちたかったこのためテキサス併合と同じ年、テイラー米大統領はジョン・スライデルを全権とした交渉団を送りメキシコカリフォルニアおよびニューメキシコ購入したい申し出た。しかし当時メキシコ国内混乱続いており、例え1846年1年間だけで大統領は4回、戦争大臣は6回、財務大臣いたって16回の交代が行われ、交渉団を迎え入れたホセ・ホアキン・デ・エレーラ(英語版大統領反逆罪訴えられ追放されるなど、交渉どころではなかった。また、メキシコ世論買収申し出猛反発した。そして、マリアノ・パレーデス・アリリャガ(英語版大統領のもと、より国家主義的色合いの強い政府成立したのを見届け交渉団は引き揚げた。

※この「テキサス共和国」の解説は、「米墨戦争」の解説の一部です。
「テキサス共和国」を含む「米墨戦争」の記事については、「米墨戦争」の概要を参照ください。

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