ヘンリー砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 04:55 UTC 版)
ヘンリー砦は5角形で開放型稜堡を持つ土で固めた構造であり、広さは10エーカー (40,000 m2)、テネシー川の東岸にあり、カークマンズ・オールド・ランディングとスタンディング・ロック・クリークに近く、サンディ川の河口のほぼ対岸だった。 1861年5月、テネシー州知事が州の弁護士ダニエル・S・ドネルソンを准将に指名し、テネシー州中部の川に要塞を建設するよう指示した。ドネルソンは適当な場所を見付けたが、そこは当時中立だったケンタッキー州の領域内だった。そこから上流のテネシー領内に少し入ったカンバーランド川沿いで、砦を造る場所を選定し、その砦はドネルソンの名前を冠することになった。テネシー工兵軍団のブッシュロッド・ジョンソン大佐もその場所を承認した。 ドネルソン砦の建設が始まると、ドネルソンはテネシー川を西に12マイル (19 km)移動し、ヘンリー砦の場所を選定し、テネシー州選出の合衆国上院議員グスタブス・アドルファス・ヘンリー・シニアに因んでヘンリー砦と名付けた。ドネルソン砦はカンバーランド川西岸だったので、2番目の砦にはテネシー川東岸を選び、一つの守備隊が砦の間を移動して両方の砦を守るように意図されたが、双方を同時に攻撃されるとは思ってもみなかった。カンバーランド川のドネルソン砦とは異なり、ヘンリー砦は低い湿地にあり、対岸の丘からは見下ろされていた。良いところとしては川下に2マイル (3 km)障害の無い戦場が開けていることだった。ドネルソンに雇われた測量チームの土木技師アドナ・アンダーソンと第1テネシー歩兵連隊のウィリアム・F・フォスター少佐はその場所に強く反対しジョンソン大佐に訴えたが、ジョンソンはよく分からないながらそこを承認した。 砦の設計は川の交通を止めることが意図されたが、歩兵の攻撃には耐えがたく、確実に戦争で軍隊が何かを成そうという規模ではなかった。建設は、第10テネシー歩兵連隊と奴隷を使って6月半ばに始まり、最初の大砲の試射は7月12日に行われた。しかし、この行動の慌ただしさの後で、1861年の残りはミシシッピ川の砦が兵士や大砲を受け入れる優先度が高かったので、ほとんど何も起こらなかった。12月遅く第27アラバマ歩兵連隊の追加部隊が500名の奴隷と共に到着した。彼らは川向こうでヘンリー砦からは大砲の届く範囲にあるスチュワートヒルに小さな砦を建設し、ハイマン砦と名付けた。同じ頃、ロイド・ティルマン准将がヘンリー砦とドネルソン砦両方の指揮官に就いた。ヘンリー砦には、アドルファス・ハイマンとジョセフ・ドレイク各大佐の指揮する2個旅団、約2,800名ないし3,400名が配置された。彼らは主に米英戦争の名残である旧式な火打ち石式ライフル銃で武装していた。 戦闘の時までに17門の大砲がヘンリー砦に運ばれ、11門は川を攻撃対象にし、残り6門が陸地からの攻撃に備えて据えられた。大きな大砲が2門あり、1門は10インチ (25.4 cm)コロンビアード砲、もう1門は24ポンド施条砲、その他の砲は32ポンド滑腔砲だった。42ポンド砲も2門有ったが、その口径に見合う砲弾が無かった。川が通常の水位にあるとき、砦の壁の高さは20フィート (6 m)あり、壁の根本の幅も20フィートあり、上にいくにつれて薄くなり、胸壁での厚みは10フィート (3 m)だった。しかし、1862年2月、激しい雨で水位が上がり、砦の大半は火薬庫を含め水面下になった。 南軍はもう一つ防御手段を講じたが、それは戦史の中でも特異なものだった。幾つかの魚雷(現代の用語では機雷)が主要な舟の航行路の水面下に固定され、通り過ぎる船が触れれば爆発するようになっていた(この装置は、水面が高かったことと、魚雷の金属容器に洩れがあったために、効果がないことがわかった)。
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