テネシー【Tennessee】
テネシー【テネシー】(観賞樹)
登録番号 | 第4404号 | |
登録年月日 | 1995年 3月 15日 | |
農林水産植物の種類 | ばら | |
登録品種の名称及びその読み | テネシー よみ:テネシー | |
品種登録の有効期限 | 18 年 | |
育成者権の消滅日 | 2000年 3月 16日 | |
品種登録者の名称 | 第一園芸株式会社 | |
品種登録者の住所 | 東京都渋谷区渋谷一丁目1番4号 | |
登録品種の育成をした者の氏名 | ペートルスエギディウスブーレージ | |
登録品種の植物体の特性の概要 | ||
この品種は,「コクテール」に「エリオラ」を交配して育成されたものであり,花房の形は単花咲,花色が鮮橙,丸弁,整形咲,微香の中輪花となる切花向きの品種である。 樹形及び株立は普通,樹高は中である。開花枝の太さは中,新梢の色及び開花後の枝の色は青銅である。とげの曲性は下向き,形は下部えぐれ形,長さは中,基部の幅は普通,色は青銅,数は幹の部分及び花枝の基部は中,花枝の中央部は少,花首はほとんど無である。小葉の数は7枚,本葉の長さ及び幅は普通である。展開直後の若葉の色は赤紫,光沢は半光沢,成熟葉の色は濃緑,光沢は半光沢,葉肉の厚さ及び硬さは普通である。花房の形は単花咲,蕾の形はつぼ形である。花形は整形咲,花の大きさは中輪,高さは中位,花弁表側の色は鮮橙(JHS カラーチャート1306)に基部が鮮橙黄(同2205),裏側の色は明橙(同1305)に基部が鮮橙黄(同2205)である。花弁の光沢は普通,花色の移行性は難,花弁の形は丸弁,花弁一枚の形は円形先端丸形,花弁の厚さ及び硬さは普通,数は30~34枚である。花の香りは微香,開花時期は早咲である。 「マリーナ」と比較して,成熟葉の光沢が半光沢であること,花色が鮮橙であること等で区別性が認められる。 | ||
登録品種の育成の経過の概要 | ||
この品種は,育成者のほ場(オランダ王国)において,1984年に「コクテール」に「エリオラ」を交配し,その実生の中から選抜し,これを増殖して試作し,諸特性が安定していることを確認して1988年に育成を完了したものである。 |
テネシー
テネシー州
(テネシー から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/20 14:58 UTC 版)
テネシー州(テネシーしゅう、英: State of Tennessee [tɛnᵻˈsiː] ( 音声ファイル)、略号: TN[1][2], Tenn.[1][2][3]、チェロキー語: ᏔᎾᏏ, ラテン文字転写: tanasi[注 1])は、アメリカ合衆国南部の州[2][3]。合衆国50州の中で陸地面積では第36位、人口では第16位でもある。南北戦争では南部連合側に属し、シャイロー、ナッシュビル、マーフリーズボロなどが戦場となった。
- 1 テネシー州とは
- 2 テネシー州の概要
テネシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/17 06:35 UTC 版)
ゲティスバーグの後で、ロングストリート軍団は西部戦線に転属となり、ブラクストン・ブラッグ将軍のテネシー軍に合流して、チカマウガの戦いの勝利に加わった。フッドもチカマウガの戦いに参加したが、フッドはテネシー軍の「翼」の指揮官として行動したロングストリートの軍団指揮官として働いた。ローはフッド師団の中では上級旅団長として再度その師団指揮を代行した。9月20日、ローの指揮下にあったフッド師団が北軍前線の隙間を攻めて、少なくとも敵の大砲15門を捕獲した。フッドはその日再度重傷を負ったので、ローは師団長に留まることになった。 ロングストリートはチカマウガの時のローの功績を褒めたが、この2人は激しい論争を始めるようになった。その元はロングストリートのお気に入りであるミカ・ジェンキンス准将とローとの間の職業的嫉妬によるものだった。異なる時と場所で、ロングストリートはフッド師団の指揮官職が空いた場合に、ローとジェンキンスの双方にその職を約束していた。ローはフッド師団ができたときから仕えており、ゲティスバーグやチカマウガではそれを指揮して功績を残していた。ジェンキンスはこの師団にとって新参であり、一度も指揮を執ったことは無かったが、その准将に指名された日付がローのものより前だった。またチカマウガの直ぐの1863年9月にジェンキンスの旅団がフッド師団に付けられたとき、フッドが負傷して不在となり、ローはフッド師団をジェンキスに渡すしかなかった。 フッド師団はブラッグの軍隊と共にチャタヌーガの包囲戦に参加した。1863年10月遅くまでに、ローの旅団はフッドの師団や軍隊から離れ、ルックアウト渓谷と呼ばれることになるテネシー川のブラウンズフェリー(渡し場)を守った。ローが休みを取って負傷したフッドを尋ねている間に、師団長のジェンキンスがブラウンズフェリーの防衛隊から半分以上を抜いてしまった。これは敵の動きに関する情報があり、またブラウンズフェリー近くに残っている2つの連隊の1つである第15アラバマ連隊を指揮するウィリアム・オーツ大佐からの援軍の要請が合ったにも関わらない行動だった。10月24日、北軍がブラウンズフェリーを強襲し守備隊を圧倒した。数日後、北軍はポトマック軍からの援軍である第11及び第12軍団がルックアウト渓谷の他の端であるウォーハッチー駅に到着した。これら新鮮な北軍がブラウンズフェリーを占領した北軍と組んで、ユリシーズ・グラント中将が「クラッカー・ライン」を開くことを可能にし、チャタヌーガ市内で飢えていた北軍に物資を届けることができた。 南軍のブラッグ将軍は「クラッカー・ライン」がチャタヌーガ包囲に終わり意味するものと考え、10月28日にロングストリートにその軍団を率いてルックアウト渓谷の支配を奪うよう命じた。ロングストリートは敵の2個軍団に対処するためにフッド師団のみを派遣することにした。ジェンキンスは直ぐにウォーハッチーで鉄道に夜襲を掛ける作戦を立て、ジョン・ブラットン大佐が指揮するジェンキンス旅団とヘンリー・L・ベニング准将の旅団、合計2個旅団で攻撃することにした。ウォーハッチーへの攻撃と同時に1マイル (1.6 km)以上離れたブラウンズフェリー近くではテキサス旅団とローの旅団で妨害行動を行うこととした。ジェンキンスは既に勢力で劣勢だったが、やはりフッド師団に属するジョージ・T・アンダーソン准将の旅団や自身の旅団のハンプトン・リージョン歩兵連隊のかなりの兵力を使わないことでさらに事態は難しくなった。いざ戦闘が始まると、師団長であるジェンキンスが広く分散した師団の最左翼であるウォーハッチーまで馬で乗り進み、全軍を協調させられるような位置にはいなかった。その後の戦闘は南軍の負けになった。ジェンキンスは後に、ローがその妨害工作をあまりに早く諦めたと主張した。ローとテキサス旅団長であるロバートソン准将は、他の部隊と協調して動いたと主張した。この論争はジェンキンスとローの間の緊張関係を沸騰点まで高め、決して収まることは無かった。 ジェンキンスは1863年11月から12月にかけて、ロングストリートのノックスビル方面作戦でもフッド師団の指揮を続けた。フッド師団はジェンキンスの下で機能が働かないままであり、ジェンキンスは特にキャンベル駅の戦いでの難局でローを再度非難した。フッド師団およびロングストリート軍団の指揮状態は1864年3月まで著しく悪化し、この時、ロングストリートがローやラファイエット・マクローズ少将および少なくとも1人の准将を逮捕させ軍法会議に掛けた。ロングストリートの部下達に対する告発は南軍陸軍省から支持されなかった。 打ち続くストレスによってローは辞任を申し出ることになり、自ら辞表を提出するためにリッチモンドへ移動した。リッチモンドでローがフッドのもとを訪れると、フッドはローに辞任を思い留まり、陸軍省にはそれを受け付けないようフッドの影響力を行使すると伝えた。ローがまだ東テネシーにあった自分の旅団に戻ると、ロングストリートが命令不服従の廉でローを逮捕するよう命じた。ロー旅団の兵士達はこの時までに一人の大佐を除いて旅団全体と共にその連隊をアラバマへ転属することを要請していた。ロングストリートはその部隊をテネシーに残すことで仕返しし、軍団の残りは北バージニア軍に再度合流しようとした。しかし、ロバート・E・リー将軍はローとアラバマ部隊に北バージニア軍に戻るよう命令した。フッドはこのとき昇進しており、フッド師団の新しい指揮官としてチャールズ・W・フィールドが任命され、その後この師団ははっきりと好転し、1ヶ月のうちにチカマウガで示したような効率の良さを取り戻した。
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テネシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 06:33 UTC 版)
「ジェイムズ・ロングストリート」の記事における「テネシー」の解説
1863年8月半ば、ロングストリートは西部戦線に転進するという試みを再開した。アメリカ連合国陸軍長官のジェイムズ・セドンに私的な手紙を送り、古い友人のジョセフ・ジョンストンの下で働きたいと頼んだ。さらに議会の同調者ルイス・ウィグフォール上院議員との会話でその考えを押した。ウィグフォールは以前からロングストリートはブラクストン・ブラッグの後任にと考えていた。ブラッグ軍はチャタヌーガの郊外でローズクランズ軍からの圧力を日増しに受けるようになっていたので、リーとデイヴィス大統領は9月5日に要請に応じた。南軍にとって最も大変なものの1つに数えられる兵站上の努力により、ロングストリートはラファイエット・マクローズとジョン・フッドの師団、ジョージ・ピケットの師団から1旅団およびポーター・アレクサンダーの26門砲兵大隊を、両カロライナ州を通りジョージア州北部にいるブラッグのところまで16の鉄道を使い775マイル (1,240 km)を移動させた。この行動のために3週間以上を要したが、ロングストリートとその軍団の主要部隊は9月17日に到着した。 第1軍団の古参兵はチカマウガの戦いの初期段階に間に合った。ブラッグはロングストリートを左翼の指揮に、レオニダス・ポーク中将を右翼の指揮に置いた。9月20日、ロングストリートは敵の狭い前衛に対し、8個旅団を長い縦列にして攻撃を仕掛けさせた。偶然、ローズクランズからの誤った命令で北軍の戦列に隙間が生じ、ロングストリート軍はそれに付け込んだ。攻撃側の組み立ては地形に適ったものであり、それでなくとも北軍の戦列に強力な圧力を掛けるものだった。北軍の右翼が崩壊し、ブラッグ軍が接近して敵軍を打ち破ろうとした。ローズクランズとその多くの部隊がチャタヌーガの方向に撤退する中で、ジョージ・ヘンリー・トーマス少将の部隊だけが頑強に守り総崩れを防いだ。ブラッグも退却する北軍を強いて追撃しようとはしなかった。それにも拘わらず、チカマウガは西部戦線における南軍最大の勝利であり、ロングストリートはその功績を評価された。 ロングストリートは直ぐになにかと悪評のあるブラッグと衝突し、ブラッグを更迭しようと動いている軍の古参指揮者達の指導者になった。ブラッグの部下達は以前からその指導力やかんに障る性格に不満を抱いていた。古参の中将であるロングストリートが到着し、行動を起こすには絶好の時となった。ロングストリートはセドンに宛てて手紙を書いた。 今の指揮官が居る限り、神の手以外の何者も我々を救ったり助けてくれはしないと確信している。 状況は深刻だったので、デイヴィス大統領は直に仲裁するしかなかった。次に起こったことはこの戦争の中でも異様な場面であり、ブラッグは上官に責められて顔を真っ赤にして座っていた。ロングストリートは、ブラッグが「1軍を指揮する能力が無く、すなわち兵士を戦闘に向かわせる力が無く」、「やるべきことが分かっていない」と言った。デイヴィス大統領はブラッグの肩を持ち、この論争を解決するためには何もしなかった。 ブラッグはその地位を保ち、ロングストリートに対してはバージニアから連れてきた部隊のみに限定してその指揮権の及ぶ範囲を減らすことで報復した。第三次チャタヌーガの戦いの前に幾つか小さな戦闘に参加した後、ロングストリートとその部隊は東テネシーに派遣されて、北軍のアンブローズ・バーンサイド軍の前進を抑えることになった(ノックスビル方面作戦)。ロングストリートがこの任務に選ばれたことは、ブラッグの敵意によるものでもあったが、陸軍省がロングストリート軍をリー軍に戻したいと考えており、この移動はその方向に近付けるという意図があった。 ロングストリートは11月にノックスビルに向かう行軍が鈍かったので批判され、その部隊の幾つかは「スロー・ピーター」という渾名も使い始めた。バーンサイドはキャンベルズ・ステーションの戦いでロングストリート軍の圧力を回避し、町の周りに塹壕を掘って守備を固めた。ロングストリートは包囲したがうまく行かなかった。サンダース砦の戦いでも南軍に活路を開かせなかった。ブラッグが11月25日にチャタヌーガでグラントに敗れたとき、ロングストリートはジョージア州北部でテネシー軍に合流することを命じられた。ロングストリートは躊躇してバージニアに戻る動きを始めたが、それから間もない12月初めにウィリアム・シャーマン軍の追撃を受けた。ロングストリート軍は冬の宿営に入り、春には北バージニア軍に再度合流した。この小さな作戦行動の成果と言えば、チャタヌーガでブラッグが必要とした部隊を奪ったことだった。ロングストリートがサフォーク以降で初めて単独指揮した行動は失敗に終わり、自尊心を傷つけられた。作戦失敗に対する反応として、セブンパインズのときにやったように他人を非難した。ラファイエット・マクローズを指揮官から解任し、ジェローム・ロバートソン准将とイベンダー・ロー准将の軍法会議を要求した。総務局長のサミュエル・クーパーには12月30日に辞意を伝える手紙を送った。しかし、その辞意は受け付けられなかった。 ロングストリートの軍団が東テネシーで適切な隠れ場や物資も無く厳しい冬を過ごした後、再び戦略計画を練り始めた。テネシーからケンタッキーに向けて攻撃的遠征を行い、P.G.T.ボーリガードの2万名の軍団に応援を貰うというものだった。リーとは意見が一致したものの、デイヴィス大統領やその新しく指名した軍事顧問ブラクストン・ブラッグを説得することはできなかった。
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テネシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/16 06:06 UTC 版)
「アメリカ大陸のウェールズ移民」の記事における「テネシー」の解説
南北戦争後、ウェールズ移民104家族がペンシルベニアからテネシー州東部に移動した。これらのウェールズ人はノックスビル市の一部であるメカニクスビルと呼ばれる地域に入植した。これらの家族はジョセフとデイビッドのリチャーズ兄弟が募集し、当時ジョン・H・ジョーンズと共同所有する圧延工場で働いた。 リチャーズ兄弟はルイビル・ナッシュビル鉄道の側にノックスビル鉄工所を共同で設立し、そこが後に1982年のワールドフェア会場になった。ウェールズ移民が働いた鉄工所の当初の建物の中で、レストラン「ザ・ファンドリー」(鋳造所の意)を収容する建物だけが今も残っている。1982年のワールドフェアでこの建物はストロハウスと呼ばれていた。 ウェールズ移民は第二長老派教会のために取って置かれたスペースを見て、1870年に自分達の組合教会を建設し、トマス・トーマスを初代牧師に任命した。しかし、1899年にはこの教会の資産が売却された。 ウェールズ移民はノックスビルで成功し他の事業も設立した。その中には石炭車を作る会社、スレート屋根材を作る会社数社、大理石の会社、家具を作る会社数社などがあった。1930年までに多くのウェールズ移民は市内の他の地域やセビア郡など隣接する郡部に分散していった。今日、ノックスビル都市圏の250以上の家族が当初の移民の中に直接その先祖を辿ることができる。ノックスビルにおけるウェールズの伝統はセントデイビッドの日を祝う子孫達に伝えられている。
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テネシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:33 UTC 版)
「カントリーベア・ジャンボリー」の記事における「テネシー」の解説
ギターに似た1本弦の楽器を演奏する他、夏季・冬季はジグ、ゼブと共にボーカルも担当する。
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テネシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 22:58 UTC 版)
「第12軍団 (北軍)」の記事における「テネシー」の解説
ゲティスバーグ方面作戦の終了後、ポトマック軍はロバート・E・リーを追跡してバージニアに入った。第12軍団も追撃戦に参加し、ラパハノックまで前進した。ラパハノックに滞在中の1863年9月23日、第11軍団と第12軍団はポトマック軍本体から分離され、チャタヌーガで包囲されていたウィリアム・ローズクランズを支援するように命令された。2個軍団の総司令官にはジョセフ・フッカー少将が任命された。テネシーに到着後、ギアリーの師団は前線に配置され、他方ウィリアムズの師団はマーフリーズボロからブリッジポート間の鉄道沿いに留め置かれた。ギアリーはチャタヌーガで包囲された軍と合流するために前進した。10月27日の夜、師団はルックアウト渓谷で野営したが、前進しすぎたため他の部隊からは孤立していた。深夜にジェイムズ・ロングストリートの部隊の一部が攻撃をかけてきた。しかし、ギアリーは奇襲に対する備えをしており、ロングストリートを撃退した。この際、ギアリーは第11軍団の一部の部隊から、迅速かつ勇敢な支援を受けることができた。カンバーランド軍司令官であるジョージ・ヘンリー・トーマスは、その公式報告書に「数に勝る敵の奇襲を撃退したギアリー師団の反撃は、この戦争において最も際立った功績と位置づけられるだろう」と記している。 翌28日から29日にかけての深夜にはワウハッチーの戦い(Battle of Wauhatchie)が発生し、翌月にはルックアウト山の戦いに勝利した。そこでの第2師団の奮戦は、「雲の上の戦い」として有名となった。ギアリーは第4軍団のウォルター・ワイテイカー(Walter C. Whitaker)の旅団を支援した。ワイテイカーの連隊の一つである第8ケンタッキー連隊が、最初に山頂に旗を立てた。
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テネシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 22:59 UTC 版)
「第11軍団 (北軍)」の記事における「テネシー」の解説
ゲティスバーグの戦いの後、第11軍団はバージニアに戻った。8月7日、第1師団は第11軍団の所属から離れ、サウスカロライナ州チャールストンへ向かうよう命令を受けた。9月24日、第2師団(フォン・シュタインヴェール)及び第3師団(シュルツ)は、カンバーランド軍の補強のため、第12軍団と共にテネシーへ向かう命令ようを受けた。これら2個師団は総人員20,000人を超えていたが、1週間の間に1,200マイル以上を移動し、テネシー川の沿いのブリッジポートに事故も遅滞もなく到着した。なお、ジョセフ・フッカーが第11軍団と第12軍団の総合指揮官となった。 10月29日、包囲されたチャタヌーガへの補給路を確保するために開始された、ワウハッチーの戦い(Battle of Wauhatchie)の戦いで、ハワードの2個師団は第12軍団を支援するよう命令された。 戦場に到着すると、フォン・シュタインヴェール師団のオーランド・スミス(Orland Smith)大佐の旅団は、敵と面する急な丘に対して突撃をかけた。敵からの銃火を浴びたが発砲は行わず、銃剣のみでジェイムズ・ロングストリートの南軍古参兵を塹壕から追い落とした。この攻撃でいくつかの連隊は大損害を受けたが、この極めて勇敢な攻撃はユリシーズ・グラント等の高官達から大きな賞賛を受けた。 11軍団の一部は、ミッショナリー・リッジの戦いにも参加し、左翼のウィリアム・シャーマンと協力した。戦いの後、軍団はノックスビルの解放に向かったが、この作戦の困難さと補給不足は、以前に経験した作戦を上回るものであった。 1864年4月、第11軍団の2個師団は分割され、新たに組織された第20軍団の所属となった。ハワードは第4軍団の軍団長となり、その後さらにテネシー軍の司令官に昇進した。
※この「テネシー」の解説は、「第11軍団 (北軍)」の解説の一部です。
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「テネシー」の例文・使い方・用例・文例
- アラバマ州のある大学は、ジョージア州、テネシー州、ルイジアナ州などいくつかの州とレシプロシティ契約を結んでいます。これらの州の住人は、アラバマ州の住人と同じ低い額のレシプロシティ学費が認められます。
- ジャックダニエルはテネシーのウイスキーです。
- 1968年4月、キング牧師はテネシー州メンフィスにいた。
- テネシーの田舎町の電化
- ジョン・トーマス・スコープスが高校で進化論を教えることによりテネシー州法を犯した1925年の大々的に放送された裁判
- テネシー川に生息する巻貝を食べる体長3インチのパーチ
- テネシー峡谷開発公社
- テネシー州とノースカロライナ州にある国立公園で、米国東部で最も高い山を含む
- テネシー川のアラバマ北部の町
- テネシー東部の都市
- テネシー州中西部の町
- テネシー州西部の都市
- テネシー北東部の町
- テネシー川沿いのテネシー東部の都市
- テネシー州の大都市
- テネシー州の州都
- 南西ヴァージニアで始まり、通常南西に流れ、テネシー州東部を横切り、テネシー川に注ぐ川
- 南東部ケンタッキーで水量を増し、北テネシーを西進し南西ケンタッキーでオハイオ川の支流となる川
- ノースカロライナとテネシーの間のアパラチア山脈の一部
- テネシー川流域に住んでいたアルゴンキン族
テネシーと同じ種類の言葉
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