テネシアン紙への復帰
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「ジョン・ローレンス・シーゲンソーラー」の記事における「テネシアン紙への復帰」の解説
1961年7月29日、シリマン・エヴァンズ・ジュニアが心臓発作で急死したことをきっかけに、シーゲンソーラーの政府でのキャリアは終わりを告げることとなる。テネシアン紙で長年にわたり記者として活躍したジョン・ナイが一時的に発行人を継いだのち、1962年3月20日、新たにエヴァンズの兄弟であるエイモン・カーター・エヴァンズが発行人に就任した。 新任のエヴァンズにとって最初に成すべきことは、シーゲンソーラーを編集人として呼び戻すことだった。シーゲンソーラーは地元記事編集アシスタント、エヴァンズはジャーナリストをめざして2人は共に作業した。一説によると、この頃2人は一度だけ喧嘩になりそうだったことがある。 1962年3月21日、エヴァンズはシーゲンソーラーを『テネシアン』紙の編集者に任命した。この新しい編成により、刷新された『テネシアン』紙は、これをきっかけに急速にその名声を高めていった。特に1962年8月の民主党予備選挙では、不在者投票にからんだ不正行為の証拠となる文書が発見されたことを報じ、有名となった[2]。 シーゲンソーラーのケネディとの友情はジミー・ホッファによる陪審員買収裁判の焦点の1つとなった。テネシアンの記事を「一方的な中傷」とし、ホッファの弁護士はシーゲンソーラーが個人的にホッファを有罪に仕立て上げようとしていると批判した。しかしシーゲンソーラーはジャーナリストとして感情に任せた記事を書いたことはないと語った。ホッファの弁護士は勝訴を目論みナッシュビルからチャタヌーガに裁判地を変更し、1964年の45日におよぶ裁判でホッファは有罪を逃れた。 翌年、『テネシアン』の記者のビル・コヴァックの特権を無効にするある決議が通った後、シーゲンソーラーはテネシー州上院会議での騒動を牽引した。コヴァックが後に非公開会議と呼ばれるようになる委員会の傍聴席を離れることを拒んだことからこれが起きた。 1966年12月、シーゲンソーラーとリチャード・N・グッドウインは歴史家のウイリアム・マンチェスターによるケネディ大統領暗殺事件に関する著書『The Death of a President 』についての批判が高まり、ケネディ家の代理人を務めた。シーゲンソーラーはジャクリーン・ケネディが不正確でプライベートの侵害であるとして訴えた初期の版を読んでいた。 1968年アメリカ合衆国大統領選挙ではテネシアンでの職務を一時的に離れ、民主党大統領候補として出馬したロバート・ケネディのもとで働いた。この期間、シーゲンソーラーはジャーナリストとして『ニューヨーク・タイムズ』紙に「数少ない信頼できる人の1人。ケネディこそがその人である」と記した。カリフォルニア予備選の勝利の後、1968年7月6日7月6日にケネディが凶弾に倒れた。葬儀で彼の棺を担ぎ、後にシーゲンソーラーは、『名誉ある告白:ロバート・ケネディに捧ぐ』(ISBN 0385471270) の編者の一人に名を連ねた。 60年代のシーゲンソーラーはこの他に公民権運動への注目に精力を傾け、1969年にはテネシー州のジョセフ・ドゥリック司教がすすめていた人種差別撤廃運動を支援していた。『ザ・ニューヨーカー』誌はシーゲンソーラーについて「民主党と強い繋がりがある」と記した。ケネディ家と「家族ぐるみの付き合い」があり、ゴア家と「長年の家族ぐるみの付き合い」があり、元民主党上院議員のジム・セザーとも友人である。
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