テネシーとケンタッキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 07:21 UTC 版)
「モーガンの襲撃」の記事における「テネシーとケンタッキー」の解説
モーガン将軍と選り抜きの2,460名の南軍騎兵は軽砲兵1個大隊と共に、1863年6月11日にテネシー州スパータを出発した。これはテネシー州内の南軍から北軍のオハイオ軍の注意を逸らすことが意図された。その地域の南軍指揮官ブラクストン・ブラッグ将軍はモーガンの騎兵隊がケンタッキー州に入ることで陽動行動させるつもりだった。しかし、モーガンは士官の何人かに、以前からインディアナ州やオハイオ州に侵入して北部に戦争の恐怖をもたらす考えでいることを打ち明けていた。ブラッグはモーガンにテネシーやケンタッキーを自由に騎り回す裁量権を与えたが、いかなる場合もオハイオ川を越えてはならないという条件をつけていた。6月23日、北軍のカンバーランド軍がブラッグ将軍のテネシー軍に対する作戦を開始し、これがタラホーマ方面作戦と呼ばれるようになり、モーガンはそれが北のケンタッキー州に進む時だと決めた。 7月2日、モーガンは北軍の通信線を遮断することを期待してケンタッキー州に入り、そこでは称賛の気持ちを表す市民が公然とその騎兵を迎えた。バークスビルで雨で増水したカンバーランド川を越え、モーガン師団はグリーン川まで進み、7月4日のテブスベンドの戦いで北軍の1個連隊(第25ミシガン歩兵連隊)に遮られた。モーガンは間もなくレバノンの戦いでそこの守備隊を急襲し占領した。町の鉄道補給所で第20ケンタッキー連隊の400名の兵士を囲ったが、防御が十分になされた建物はかなりの防御力があった。激しい6時間の戦闘の中で、北軍はモーガンの一番下の弟トーマスを最後の突撃の時に殺した。最終的にモーガンは北軍を捕捉し釈放した。 弟を失った悲しみにあったモーガンは、スプリングフィールド、バーズタウンおよびガーネッツビルを通過し北のルイビルへの進軍を続けた。その途中、北軍やケンタッキー州兵隊と幾つかの小戦闘を繰り返した。しかし、ルイビル市の直ぐ南で、部隊を北西に進路を変えさせオハイオ川に向かった。 スプリングフィールドでルイビルの北と東に分遣隊を送り、モーガン隊が実際に何処に向かっているか北軍を混乱させようとした。この分遣隊はトウェルブマイル島でオハイオ川を渡ったが、モーガン隊と合流する前にインディアナ州ニューペキンで捕まった。モーガンは北軍にその目的を悟らせないために他の手段として、部隊の電信士"ライトニング"エルスワースに北軍の電信士に成りすまさせて電報を打たせ、襲撃隊の向かう方向について異なる幾つかの伝言を送り、さらにモーガン隊の勢力に付いても嘘の報告をさせ、時には7,000名とまで報告させた。エルスワースはこの襲撃の間を通じてこれを繰り返し、特にインディアナ州で多かった。
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