テネシー川、カンバーランド川およびミシシッピ川 (1862年2月-6月)
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「西部戦線 (南北戦争)」の記事における「テネシー川、カンバーランド川およびミシシッピ川 (1862年2月-6月)」の解説
グラントは素早く行動し、2月2日には川を使って部隊の移動を始めた。この時の作戦はアメリカ海軍の将官アンドリュー・フットと良く連携がとれていた。ヘンリー砦は氾濫原の上にある粗末な砦であり、砲艦からの攻撃には実質的に耐えられなかった(ヘンリー砦の戦い)。ケンタッキー州が以前中立を宣言していたので、南軍はケンタッキー州内のより戦略的な位置で川に対する防御を施せなかったために、テネシー州内に入って直ぐの所に砦を造っていた。守備隊のロイド・ティルマン准将は2月5日に守備兵のほとんど全員を撤退させ、11マイル (18 km) 東のドネルソン砦に移動させた。ティルマンは捕虜になった。テネシー川はその後北軍が南部に展開するために確保された。 カンバーランド川沿いのドネルソン砦はヘンリー砦よりも防御力が優れており、海軍の攻撃も効果が無かった。グラントの部隊は陸路を進んで南軍を追跡し、砦の背面から直接攻撃を仕掛けようとしたが不成功だった。2月15日、南軍のジョン・フロイド准将の部隊が逃亡を試み、ジョン・マクラナンド准将の指揮する北軍の右翼から急襲をかけて駆逐したが、逃げ出すための穴は明けられなかった。グラントはこの一時的な挫折から直ぐ立ち直り、弱体化した南軍の右翼に攻勢を掛けた。砦と隣接した町ドーバーにいたサイモン・バックナー准将指揮する南軍は11,5000名の将兵と共に降伏し、グラントが「無条件降伏」を要求したので大砲など軍需物資も渡した(ドネルソン砦の戦い)。ヘンリー砦とドネルソン砦での勝利はこの戦線での北軍にとって最初の大きな勝利となり、2つの大河を手に入れてテネシー州への侵攻の準備ができた。 ジョンストンの防衛前線が敗れた。グラントが予測していたようにコロンバスにいるポークの位置づけは耐え難いものになったので、ドネルソン砦の陥落後一旦軍を引いた。グラントは、南軍が互いに横の連携を取るために使っていたメンフィス&オハイオ鉄道も切り取った。南軍のボーリガード将軍が2月に東部戦線からジョンストンの元に到着し、ミシシッピ川からテネシー川までの全軍を指揮することになった。この南軍は指揮系統をうまく分けたので、ジョンストンはテネシー州マーフリーズバラの小さな部隊を受け持った。ボーリガードはミシシッピ州コリンスの近くで部隊を集結させ攻勢に転じる作戦であった。ジョンストンは3月遅くにボーリガード軍に合流するために部隊を動かした。 北軍の作戦準備ははかばかしくは進まなかった。ハレックは南軍が分割されて個別に粉砕できるということを理解するよりも、北軍総司令官ジョージ・マクレランとの関係で自分の立場の方により関心があるように見えた。さらに同輩でありナッシュビルにいるビューエルが協働行動を取ることに同意できなかった。ハレックはグラントをテネシー川に送り、ビューエルはナッシュビルに留まっていた。3月11日、リンカーン大統領は、ハレックをミズーリ川からノックスビルまでの全軍指揮官に指名し、指揮系統を統一させたので、ハレックはビューエルにテネシー川のピッツバーグ・ランディングでグラントの部隊に合流するよう命令を出した。 4月6日、ボーリガードとジョンストンの下に集結した南軍はグラントの準備ができていない西テネシー軍に対しピッツバーグ・ランディングで明け方の総攻撃で急襲した(シャイローの戦い)。この戦闘の初日、南軍の猛攻でグラント軍を後退させたが、打ち破ることはできなかった。ジョンストンがこの日に戦死した。アメリカ連合国の大統領ジェファーソン・デイヴィスは当時、ジョンストンのことを南軍で最も有能な将軍と考えていた。2日目の4月7日、グラントはビューエルの応援を得て反撃し南軍を後退させた。この時、グラントは撤退する敵軍の追撃に失敗したために大きな非難を受けることになった。しかもこれまでの全戦闘を合わせたよりも大きな両軍併せて約24,000名という損失を出していた。 北軍のミシシッピ川支配はしっかりしたものになり始めた。4月7日、南軍がシャイローから撤退する一方で、北軍のジョン・ポープ少将がボーリガード配下の孤立した部隊をアイランドNo.10の戦いで打ち破り、ミシシッピ川は南のメンフィスまでが確保された。5月18日、アメリカ海軍のデヴィッド・ファラガット提督がアメリカ連合国の最も重要な海港であるニューオーリンズを占領した。北軍のベンジャミン・バトラー少将が強い軍政府で町を支配したために住民の間にはかなりの不満が募った。 ボーリガードはハレック軍の南進に対抗できる程の戦力を集められなかったが、北軍はその状況を活かすことが出来なかった。ハレックはビューエルのオハイオ軍、グラントのテネシー軍およびポープのミシシッピ軍がピッツバーグ・ランディングで集結するのを待った。ハレック軍は重要な鉄道の接続点であるコリンスに向けて進軍したが、夜には止まって塹壕を掘ったために20マイル (32 km)進むために4週間を要した。この進行の鈍さ故にこの作戦はコリンスの包囲戦という渾名まで貰った。ハレックが漸くその要塞化された町まで到着すると、敵軍のボーリガードは損失が予測される防衛を諦め、5月29日に戦わずして撤退した。 グラントはコリンス方面作戦で直接指揮を執っていなかった。ハレックはその軍を再編成し、グラントには副指揮官という実権の無い地位を与え、集合させた3軍を混ぜ合わせて3つの「翼」に組み直していた。ハレックがマクレランの後釜で総司令官に就任するために東部へ移動すると、グラントが野戦の指揮官となった。しかし、ハレックは出発する前にボーリガード軍を追跡して打ち破る機会を浪費していた。ハレックはビューエルをチャタヌーガに、シャーマンをメンフィスに、1師団をアーカンソー州に派遣し、ポープにはコリンスの南部を確保するよう命じていた。
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