テネシー川、カンバーランド川およびミシシッピ川とは? わかりやすく解説

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テネシー川、カンバーランド川およびミシシッピ川 (1862年2月-6月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:18 UTC 版)

西部戦線 (南北戦争)」の記事における「テネシー川、カンバーランド川およびミシシッピ川 (1862年2月-6月)」の解説

グラント素早く行動し2月2日には川を使って部隊の移動始めた。この時の作戦アメリカ海軍将官アンドリュー・フットと良く連携がとれていた。ヘンリー砦氾濫原の上にある粗末な砦であり、砲艦からの攻撃には実質的に耐えられなかった(ヘンリー砦の戦い)。ケンタッキー州以前中立宣言していたので、南軍ケンタッキー州内のより戦略的な位置で川に対す防御施せなかったために、テネシー州内に入って直ぐの所に砦を造っていた。守備隊のロイド・ティルマン准将2月5日守備兵のほとんど全員撤退させ、11マイル (18 km) 東のドネルソン砦に移動させた。ティルマン捕虜になったテネシー川その後北軍南部展開するために確保された。 カンバーランド川沿いのドネルソン砦はヘンリー砦よりも防御力優れており、海軍攻撃効果無かったグラント部隊陸路進んで南軍追跡し、砦の背面から直接攻撃仕掛けようとしたが不成功だった。2月15日南軍ジョン・フロイド准将部隊逃亡試み、ジョン・マクラナンド准将指揮する北軍右翼から急襲をかけて駆逐したが、逃げ出すための穴は明けられなかった。グラントはこの一時的な挫折から直ぐ立ち直り弱体化した南軍右翼攻勢掛けた。砦と隣接したドーバーにいたサイモン・バックナー准将指揮する南軍11,5000名の将兵と共に降伏しグラントが「無条件降伏」を要求したので大砲など軍需物資渡したドネルソン砦の戦い)。ヘンリー砦とドネルソン砦での勝利はこの戦線での北軍にとって最初大きな勝利となり、2つ大河手に入れてテネシー州への侵攻の準備ができた。 ジョンストン防衛前線敗れたグラント予測してたようにコロンバスにいるポーク位置づけは耐え難いものになったので、ドネルソン砦の陥落後一旦軍を引いたグラントは、南軍互いに横の連携を取るために使っていたメンフィスオハイオ鉄道切り取った南軍ボーリガード将軍2月東部戦線からジョンストン元に到着しミシシッピ川からテネシー川までの全軍指揮することになった。この南軍指揮系統をうまく分けたので、ジョンストンテネシー州マーフリーズバラの小さな部隊受け持ったボーリガードミシシッピ州コリンスの近く部隊集結させ攻勢転じる作戦であったジョンストン3月遅くボーリガード軍に合流するために部隊動かした北軍作戦準備はかばかしくは進まなかった。ハレック南軍分割され個別粉砕できるということ理解するよりも、北軍総司令官ジョージ・マクレランとの関係で自分立場方により関心あるよう見えた。さらに同輩でありナッシュビルにいるビューエル協働行動を取ることに同意できなかった。ハレックグラントテネシー川送りビューエルナッシュビルに留まっていた。3月11日リンカーン大統領は、ハレックミズーリ川からノックスビルまでの全軍指揮官指名し指揮系統統一させたので、ハレックビューエルテネシー川のピッツバーグ・ランディングでグラント部隊合流するよう命令出した4月6日ボーリガードジョンストンの下に集結した南軍グラント準備ができていない西テネシー軍対しピッツバーグ・ランディングで明け方総攻撃急襲したシャイローの戦い)。この戦闘初日南軍猛攻グラント軍を後退させたが、打ち破ることはできなかった。ジョンストンがこの日に戦死したアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィス当時ジョンストンのことを南軍で最も有能な将軍考えていた。2日目4月7日グラントビューエル応援得て反撃し南軍後退させた。この時、グラント撤退する敵軍追撃失敗したために大きな非難を受けることになった。しかもこれまでの戦闘合わせたよりも大きな両軍併せて24,000名という損失出していた。 北軍ミシシッピ川支配しっかりしたものになり始めた4月7日南軍シャイローから撤退する一方で北軍ジョン・ポープ少将ボーリガード配下孤立した部隊アイランドNo.10の戦い打ち破りミシシッピ川は南のメンフィスまでが確保された。5月18日アメリカ海軍デヴィッド・ファラガット提督アメリカ連合国の最も重要な海港であるニューオーリンズ占領した北軍ベンジャミン・バトラー少将が強い軍政府で町を支配したために住民の間にはかなりの不満が募ったボーリガードハレック軍の南進対抗できる程の戦力集められなかったが、北軍はその状況活かすことが出来なかった。ハレックビューエルオハイオ軍グラントテネシー軍およびポープミシシッピ軍がピッツバーグ・ランディングで集結するのを待ったハレック軍は重要な鉄道接続点であるコリンスに向けて進軍したが、夜に止まって塹壕掘ったために20マイル (32 km)進むために4週間要した。この進行鈍さ故にこの作戦コリンスの包囲戦という渾名まで貰ったハレック漸くその要塞化された町まで到着すると、敵軍ボーリガード損失予測される防衛諦め5月29日戦わずして撤退したグラントはコリンス方面作戦直接指揮を執っていなかった。ハレックはその軍を再編成しグラントには副指揮官という実権の無い地位与え集合させた3軍を混ぜ合わせて3つの「翼」に組み直していた。ハレックマクレラン後釜総司令官就任するために東部移動すると、グラント野戦指揮官となった。しかし、ハレック出発する前にボーリガード軍を追跡して打ち破る機会浪費していた。ハレックビューエルチャタヌーガに、シャーマンメンフィスに、1師団アーカンソー州派遣しポープにはコリンスの南部確保するよう命じていた。

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