シャイロー
シャイロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 15:12 UTC 版)
「アルバート・ジョンストン」の記事における「シャイロー」の解説
ジョンストンは西部戦線から多くの部隊を集結させて、1862年4月6日のシャイローの戦いでグラント軍に対して大規模急襲を掛けた。南軍が北軍の宿営地を陥れ、ジョンストンは自ら軍隊を率い前線で部隊をあちこと動かして、何処にでもいるように見えた。午後2時半頃、それら操軍の一つを指揮しているときに右膝の後に銃弾を受けて負傷した。その時ジョンストンは自分の傷が重傷とは考えず、従軍医を負傷した北軍兵士の治療のために送った。しかし実際に銃弾は膝窩動脈を切断しており、その長靴が出血で一杯になった。数分後に参謀が見ている前で馬から落ちそうになり、負傷したかを尋ねられたときに、「そうだ。重傷かもしれない」と答えた。ジョンストンは1837年に行った決闘で神経を犯されたか足の感覚が無くなっていたかであり、その結果として足に受けた傷の痛みを感知しなかった可能性がある。ジョンストンは小さな峡谷に連れて行かれ、そこで数分の内に出血多量で死んだ。 南軍の銃火がこの致命傷に繋がった可能性がある。この戦闘中に北軍の兵士がジョンストンの後方に回り込んだという形跡は無く、ジョンストンが兵士達の前面に出て指揮しているときに、多くの南軍兵士が北軍の前線に向かって発砲していたことが知られている。ジョンストンは南北戦争の両軍で戦死した最高位の軍人であり、その死は南軍の士気に大きな打撃となった。ジェファーソン・デイヴィスはジョンストンをこの国で最高の将軍と考えていた。このことはロバート・E・リーが南軍の傑出した将軍として登場する2ヶ月前のことだった。
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