夜の休戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:12 UTC 版)
4月6日の夜、アメリカ史の中でも最も流血の多い戦闘の一つの第1日目には気落ちさせる結末だった。両軍間の戦場で死んでいく兵士の絶望的な叫びが夜通し北軍、南軍の宿営地に聞こえた。雷雨がその地域を通り過ぎ、北軍の砲艦からの周期的な砲撃が両軍共にその夜を惨めな経験にさせた。グラントの一時的な挫折にも怯まない態度と攻撃的な姿勢を貫く傾向を要約する有名な逸話がある。疲れ切った南軍兵士が放棄された北軍宿営地で寝に就いたとき、シャーマンは降り注ぐ雨を避けている木の下でグラントに出逢った。グラントは葉巻を吸いながらその日の損失と翌日の作戦を考えていた。シャーマンが「ところでグラント、今日は悪魔の日だったとは思わないか?」と言うと、グラントは見上げて、「そうだな」と答え、1服した後、「そうだ、だが明日は奴らに目に物見せよう」と言った。 もし明日の朝、敵がやってくれば、地獄のようにひっぱたいてやろう。 ネイサン・ベッドフォード・フォレストからパトリック・R・クレバーンに ボーリガードはデイヴィス大統領に「完璧な勝利」と電報を打ち、後に「私はグラント将軍をまさに望んでいた場所においていたので、明日の朝には終わらせることができると考えた」ことを認めた。その部下の多くも、北軍の宿営地を取り、何千もの捕虜と数トンもの物資を捕獲したことで喜び勇んでいた。しかし、グラントには楽観的になる理由があった。ルー・ウォーレス師団と、ドン・カルロス・ビューエルの15,000名の軍隊がその夜に到着しつつあり、ビューエルの全軍は午前4時までに到着して、翌日の流れを変えるのに間に合った。ボーリガードの夕暮れでその攻撃を停止させた決断については、かなりの歴史的な議論を呼んだ。ブラクストン・ブラッグとアルバート・ジョンストンの息子、ウィリアム・プレストン・ジョンストン大佐は、いわゆる「シャイローの失われた機会」を嘆いた者達の中にいた。ボーリガードは北軍前線の強さを見るために前線に出てこないで、シャイロー教会に留まっていた。ネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐からのビューエル軍がグラント軍の補強のために川を渉ろうとしているという情報(さらに戦争捕虜プレンティスの空威張り))も軽視した。ボーリガードはその決断の言い訳で、部隊は単に疲れており、昼の光は1時間も残っておらず、グラント軍の大砲の優位が手強いものだったとしていた。またアラバマ州北部にいるベンジャミン・ハーディン・ヘルム准将から、ビューエル軍はアラバマ州ジケーターに向かっており、ピッツバーグ・ランディングに向けてではないという伝言を受け取っていた。
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