シャイローとコリンス
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「ジョージ・ヘンリー・トーマス」の記事における「シャイローとコリンス」の解説
1861年12月2日トーマス准将はドン・カルロス・ビューエル将軍のオハイオ軍の中で第1師団の指揮を任された。1862年4月7日のシャイローの戦いでは2日目に参陣したが、戦闘が終わった後に到着した。シャイローの勝者ユリシーズ・グラント少将は損失の大きな戦闘であったために厳しい批判を受け、その上官ヘンリー・ハレック少将はそのミシシッピ方面軍を再編成してグラントを野戦の直接指揮官から外した。方面軍の3個軍は分割され、3つの「翼」に再結合された。トーマスは4月25日付けで少将に昇進し、グラントが指揮していたテネシー軍4個師団とオハイオ軍の1個師団からなる右翼の指揮を任された。トーマスはコリンスの包囲戦でこの想定上の軍隊を率いて成功した。6月10日、グラントは元のテネシー軍の指揮官に復帰した。
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