せいぶ‐せんせん【西部戦線】
西部戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/05 07:40 UTC 版)
Jump to navigation Jump to search西部戦線(せいぶせんせん, Western Front)とは、複数の戦線が存在する大規模な戦争において、西に位置する戦線の名称として用いられる。一般的には第一次世界大戦または第二次世界大戦において、フランス、ドイツおよびベネルクス三国に形成された前線をさす事が多い。(アメリカ独立戦争に関しては西部戦線 (アメリカ独立戦争)を、南北戦争に関しては西部戦線 (南北戦争)を参照のこと)
第一次世界大戦
第一次世界大戦においては、シュリーフェン・プランに基づいてフランス北西部に攻勢をかけたドイツ軍と、それを防ぎきったイギリス・フランス両軍によって4年間に亘る塹壕戦が展開された。数度に渡る戦闘によって数百万にも及ぶ死傷者が発生したが、機関銃の登場などによって防御側が圧倒的な有利にあった為戦線はほとんど変化しなかった。イギリス海峡に接するごく一部のみがベルギー領であった他は全てフランスの領土を横切っており、終戦時にもドイツの国土には戦火が及ばなかった。
平和時ならば社会の指導者層を形成するであろう、教育レベルの高い中流階級に属する青年の多くが戦場で死亡したため、戦後の社会に極めて大きな影響を及ぼす事になった。英仏両国の歴史に対しては、第二次世界大戦以上に大きな影響を与えたとされる。
第二次世界大戦
1939年に第二次世界大戦が開幕した当初は、先の大戦と同様の持久戦で争われると思われた。しかし翌年5月戦車の集団運用を中心にした電撃戦によってドイツ国防軍は英仏軍の前線を突破し、イギリス軍はブリテン島に撤退しフランスは降伏した。
日本の真珠湾攻撃が機となってアメリカ合衆国が参戦した後に、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相は東部戦線における負担を軽減するために西部戦線の再構築を米英首脳に求めた。これに基づいて1944年にノルマンディー上陸作戦が決行され、圧倒的な物量に支えられた米英両軍はフランス北部から戦線を左に旋回させドイツ国境を突破した。多くの連合国軍部隊がライン川を渡った後、1945年5月にドイツは降伏した。
他の地域から見た「西部戦線」
ロシアにおいては両次大戦における対ドイツ戦が「西部戦線」(Западный Фронт)と呼称される場合がある。一般的にはこの戦線は東部戦線として知られている。第二次世界大戦においてはウクライナが最も激しい戦場となった。ソ連政府は出身兵士の士気を高めるために、この戦線の名称を「ウクライナ戦線」または「白ロシア戦線」などと変更した。この地域での戦闘については独ソ戦を参照のこと。
関連項目
- 『西部戦線異状なし』:エーリヒ・マリア・レマルクの小説。第一次世界大戦時の作者の体験を基に作成されている。
西部戦線(ノルマンディーの戦い)
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「エルンスト・バルクマン」の記事における「西部戦線(ノルマンディーの戦い)」の解説
1944年2月、ダス・ライヒ師団は補充再編のためにフランスのボルドーへ移動された。G軍集団の隷下におかれた師団は、予想される連合軍の上陸に対する貴重な装甲戦力として軍集団予備の扱いで再編を進めた。この際に、バルクマンはD型の問題点を改良されたパンターA型を受領した。車体番号は424号車である。1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が開始されると、師団は7月初頭サン=ロー付近の戦闘に投入された。7月中の戦闘を通じて、バルクマンと第4中隊は多数のM4中戦車やM5軽戦車、対戦車砲を撃破した。 1944年7月27日、バルクマンのパンターは前日からのエンジンの修理のために中隊から離れていた。この時サン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところでアメリカ軍の戦車部隊と接触、交戦したとされていた。後にバルクマンの曲がり角と呼ばれることとなるこの戦闘で、バルクマンはたった1両のパンターでもってM4シャーマン9両を撃破、1両を中破させ、さらに多数の車両を撃破。戦闘の途中でアメリカ部隊の支援要請を受けたP-47戦闘爆撃機の機銃掃射を受けるがこれにも耐えて戦闘を継続しアメリカ軍の前進を停止させたとされていた。これはバルクマンが参加した戦闘の中でも特に有名なエピソードであった。しかし2015年、この戦いについて調査した歴史研究家のスティーヴン・ザロガ(英語版)が撃破されたはずの連合軍車両の記録と戦闘機の出撃記録が存在しなかったと発表した。それ以後、バルクマンの曲がり角については「武装親衛隊のプロパガンダ」であったとの見方が主流になっている。 7月28日、バルクマンはクータンセに突入、市街を占拠していたアメリカ軍部隊と交戦し、29日から30日にかけて敵戦車14両を撃破した。しかし、強力な連合軍の攻勢により、バルクマンのパンター以外2両が失われた上、バルクマン小隊は敵中に孤立する。31日、バルクマンはみずからのパンター424号車を爆破処分し、小隊員と共に敵中7キロメートルを徒歩で突破、8月5日にアヴランシェに到着して中隊と合流した。8月27日、ノルマンディーでのバルクマンの奮戦に対し騎士鉄十字章の授与が決定され、9月5日に授与された。また、騎士鉄十字章受章と合わせて親衛隊曹長(SS-Oberscharführer)に昇進したバルクマンは、第2装甲連隊第4中隊の小隊長に抜擢された。この時の車体番号は401号車である。
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「西部戦線」の例文・使い方・用例・文例
- 西部戦線で
- (第一次大戦で)西部戦線.
西部戦線と同じ種類の言葉
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