西部戦線 -ノルマンディ-
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 21:31 UTC 版)
「第1SS装甲軍団」の記事における「西部戦線 -ノルマンディ-」の解説
1944年4月部隊はパリ西部のセトゥイユ(英語版)へ移動、そこで第1SS装甲師団、第12SS装甲師団 『ヒトラーユーゲント』、装甲教導師団、第17SS装甲擲弾兵師団 『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』が配属された。そして、軍団は西部戦線の装甲予備として西方装甲集団(司令官レオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク)に配属された。この頃、軍団には名誉称号『ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー』が与えられた。 連合軍によるオーバーロード作戦が発動され、連合軍がフランスへ侵入を開始すると軍団はファレーズへ送られた。軍団はカーン地域を保持することを命令され、オーティ(英語版)、ビュロン(英語版)、カルピケ飛行場(英語版)周辺で激戦を重ねた。ミハエル・ヴィットマン率いるティーガー戦車隊がヴィレル・ボカージュ村でイギリス軍の装甲部隊の進撃を撃破したことにより、第101SS重戦車大隊は有名になった。 軍団はイギリス軍によるエプソム作戦及びグッドウッド作戦を停止させる主役を演じ、第17SS装甲擲弾兵師団 『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』と装甲教導師団はサン・ローでアメリカ軍の進撃に対し攻撃を仕掛けた。アメリカ軍によりコブラ作戦が発動された(これにより装甲教導師団は多大な損害を蒙ることとなった)後、軍団はリュティヒ作戦(アヴランシュに向かうドイツ軍の反撃作戦、結局失敗に終わる。)に参加するよう命令された。軍団の残存部隊はファレーズ・ポケットにおいて包囲され、そこでドイツ軍の脱出路を形成するために激戦を交わしたが、その際に戦車や装備のほとんどを失うこととなった。ファレーズ・ポケット内のドイツ軍の殲滅と戦線の崩壊の後、軍団はフランス=ドイツ国境への撤退戦に参加した。
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