フランス・ベルギーの解放
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「西部戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「フランス・ベルギーの解放」の解説
詳細は「パリからライン川への連合軍の進軍(英語版)」を参照 連合軍はその後も急速に東のドイツ国境に向けて進撃し、9月の初めにはベルギー国境を越えブリュッセルを解放した後、9月14日に一部の部隊がドイツ国境にあるジークフリート線に到達した。しかしノルマンディーの人工港から前線までの距離が長くなるに伴い前線への物資(特にガソリン)の補給が間に合わなくなり、8月末から9月の第2週(部隊により時期が異なる)に入ると前進が遅れまたは停止する状況になってしまった。 この時点で西部戦線のドイツ軍は三方向を連合軍に囲まれていた。北部はバーナード・モントゴメリー大将に率いられた英陸軍第21軍集団、中部はオマル・ブラッドリー中将が率いる米陸軍第12軍集団、南部はジェイコブ・L・デヴァース(英語版)の米陸軍第6軍集団である。これら西部戦線の部隊は米軍のドワイト・D・アイゼンハワーが連合国遠征軍総司令部より統括していた。 北部フランスおよびベネルクス諸国については、英国へのV2の発射を阻止するために早期の占領が重要視されていた。ドイツ軍は海岸線撤退の際に港湾を破壊していたため、連合軍の物資補給に問題が生じ始めたが、ノルマンディーの仮設港湾から大量のトラックを用いて物資を送り込む「赤玉急行」によって連合軍は9月になるとドイツ国境にまで到達した。 9月4日にはベルギーのアントウェルペンが英陸軍第11装甲師団によって解放され、連合軍の新たな補給拠点となったが、アントウェルペンはスヘルデ川河口部を遡上した内陸に位置しており、河口域周辺のドイツ軍を完全に掃討するまで補給用途には使用できなかった。 9月14日、米軍はドイツ国境を越えてシュトルベルクを占領し、9月19日からヒュルトゲンの森(英語版)に立て籠るドイツ軍への攻撃を開始した。この一連のヒュルトゲンの森の戦いにおいてドイツ軍の抵抗は激しく、戦闘は1945年2月まで続いた。 この頃から連合軍の指揮に乱れが見え始める。モントゴメリーは自身の陸軍部隊総司令官への任命と、ベルギー・オランダを経由したドイツ本土侵攻を主張した。あくまで広範囲の戦線を維持した上で中部国境地帯を中心とした攻撃を計画していたアイゼンハワーとの間には緊張が走り、一時的ではあるがモントゴメリーの解任さえ決心された。妥協案として空挺部隊を利用したオランダ侵攻が決定され、9月17日にモントゴメリーはマーケット・ガーデン作戦を発動させた。ドイツ本国への進撃路(ジークフリート線迂回路)の確保のためにこの作戦に従事したのはイギリス軍を主力に、ポーランド、アメリカの空挺部隊であり、オランダ南部の都市であるアイントホーフェン、ナイメーヘン、アーネムの3箇所に降下した。しかしライン川北岸のアーネムの町に降下したイギリス第1空挺師団は偶然同地付近で休養していたドイツ軍機甲師団の攻撃を受け、壊滅的な損害を受けて敗退した。他の地区に降下したアメリカ軍空挺部隊の作戦は成功し、オランダ領内に長さ96Kmの回廊を確保することができたものの、アーネムでの敗退により、ライン川を越えて橋頭堡を築きドイツのルール地方を占領して戦争を早期終結させるという夢は消え去った。 マーケット・ガーデン作戦の失敗後、アントウェルペンの港を使えるようにするために連合軍の進攻が開始され、スヘルデ川南岸に形成されていたブレスケンス・ポケットはカナダ、ポーランド軍によるスイッチバック作戦によって大きな犠牲を払いながらも奪取された。また、スヘルデ川北岸のドイツ軍を掃討するインファチュエイト作戦でカナダ第1軍を中心とした連合軍が勝利を収め、11月28日には機雷が除去されて港湾の利用が可能となり連合軍の物資補給体制は大きく改善された。。 一方、米軍は10月2日にアーヘンの攻撃を開始した。ドイツ本土における最初の都市であったアーヘンの防衛のため、ヒトラーはどのような犠牲を払っても町を確保することを命令した。双方に5,000人の死者が出たアーヘンの戦いの後、10月21日に町は占領され、5,600人のドイツ兵が捕虜となった。
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