フランス亡命
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「アティーク・ラヒーミー」の記事における「フランス亡命」の解説
大学卒業後は4年間の兵役に就くことが義務付けられていたため、亡命を決意した。1984年10月、22歳のときのことである。2000アフガニと母に渡された絨毯1枚だけ持って、24人の仲間とともに9日9晩かけてパキスタンとの国境の山岳地帯を徒歩で越え、ペシャーワルにたどり着いた。在パキスタン仏大使館(イスラマバード)で難民申請を行い、40日後にフランスに亡命した。1985年3月30日にフランスに着いたとき、自分が「外国人だという気がしなかった」と繰り返し語っている。 ウール県(オート=ノルマンディー地域圏)の難民受入センターに着き、1,200フランの手当を受け取り、真っ先にマルグリット・デュラスの『愛人(ラマン)』を買った。フランスに到着してから政治難民として認定を受けるのに数か月を要した。彼自身は「文化難民」だと言う。同年、2年前にカーブル大学で知り合った女性と事実婚(1996年12月15日に娘のアリス誕生)。 ルーアン大学(現ルーアン=ノルマンディー大学(フランス語版))に学び、さらにソルボンヌ=ヌーヴェル大学(フランス語版)(パリ第3大学)に進んだ。博士課程で映画記号学(「クリスチャン・メッツ」参照)を専攻し、1993年に「映画のFIN (完)」と題する博士論文を提出し、博士号を取得した。 この間、アフガニスタンでは、1978年に成立した人民民主党政権に対してムジャーヒディーン(反政府ゲリラ)が蜂起し、1979年にソビエト連邦が軍事介入。1989年のソ連軍撤退後、ムジャーヒディーンが攻撃を激化した。人民民主党員の兄が1991年に内戦下のカーブルで死去したことを知ったのは、この2年後のことであった。
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フランス亡命
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友人のブロンクールがフランスに亡命し、アレクシスも奨学金を受けてパリの大学に通っていた。パリの駅でドゥペストルを迎えたのはエメ・セゼールであり、当時、共産党代表であったセゼールはドゥペストルを直接共産党本部へ案内した。ブロンクール、アレクシスに合流し、しばらく2人が借りていたパリ9区のアパートに身を寄せた後、国際大学都市キューバ館に入居した。同国人で後に政権批判の小説『犬ども』(1961年出版) を発表することになるフランシス=ジョアヒム・ロワ、および1947年にセネガル生まれで黒人文化の解放に寄与したアリウン・ジョップ(フランス語版)によって創刊されたパン・アフリカ主義の文芸誌『プレザンス・アフリケーヌ(フランス語版)(アフリカの現前)』に寄稿していた知識人らと知り合った。 当初は母の希望に従って医学を勉強したがすぐに断念し、ソルボンヌ大学で文学、パリ政治学院で政治学を学んだ。一方で、フランス共産党に入党し、同党や書記長のモーリス・トレーズ、スターリンを称える詩を書いた。1947年には、世界民主青年連盟により、プラハで開催された世界青年学生祭典に派遣され、次いでサラエボで鉄道建設工事の作業員に志願し、ここでユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者ヨシップ・ブロズ・チトーに出会った。パリに戻ると、エルザ・トリオレの主導で結成された「若手詩人グループ」に参加し、多くのフランス知識人と知り合った。ソルボンヌ大学で、ハンガリー生まれのフランス人学生エディット・コンボ(後に筆名エディット・ソレルで『革命』(キューバ共産党中央委員会の機関紙『グランマ』の前身の一つ)に寄稿)に出会い、翌49年7月に結婚した。
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フランス亡命
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「アルベール・コーエン」の記事における「フランス亡命」の解説
コーエンが生まれる4年前の1891年4月、コルフ島のユダヤ人居住区で8歳の少女ルビーナ・サルダの惨殺死体が発見された。過越祭の直前のことであったため、少女は養子に出されたキリスト教徒の娘であり、その生き血をユダヤ教の儀式に使うために殺したのだという噂が流れ(血の中傷)、かねてからくすぶっていた反ユダヤ感情が爆発した。暴動が頻発し、欧州全土に広がる勢いであった。この影響でユダヤ人は亡命を余儀なくされ、数年の間にユダヤ人の約3分の1がコルフ島を離れることになった。コーエン一家も1900年にマルセイユ(フランス)に移住した。コーエンが5歳のときであった。その後、彼がコルフ島に戻ったのは一度だけ、13歳のときにバル・ミツワー(ユダヤ教徒の成人の儀式)を受けるためであった。それでもまだ戦前には2,000人以上のユダヤ人が住んでいたが、「戦後、強制収容所から生還したのはわずか180人」で、現在、コルフ島には「もうコーエン(ユダヤ系に多い姓)を名乗る者はいない。ユダヤ人は60人ほどしかいない」という。 81歳のときに著した自伝小説『ああ、あなた方、同胞である人間よ』(1972年出版)で、10歳の誕生日の出来事を初めて詳細に語った(最初は「私が10歳になった日」と題して、レイモン・アロンが編集長を務める月刊誌『自由フランス』に発表された)。ある露天商に反ユダヤ主義的な言葉を浴びせかけられ、他の大勢の客からも嘲笑され、追い払われた事件である。10歳の子どもが大人の言葉の暴力やいわれのない憎しみに直面し、理解に苦しみ、狂気の縁に追いやられながらそれを表現することもできないまま苦しみ続ける様子を描いたこの作品は、シャルリー・エブド襲撃事件で同僚を失った風刺画家リュズが同名の著書(2016年出版)で画によりこれを表現したことで再び注目を浴び、ユダヤ芸術歴史博物館などで特別展・回顧展が開催された。 初等教育はカトリック系の学校に通い、1904年にティエール中等教育学校に入学。学友のマルセル・パニョルとは以後、それぞれ異なる境遇にありながらも生涯にわたって友情を育むことになった。1913年、バカロレアを「良」で取得した。
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