フランス亡命後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 04:02 UTC 版)
「プンペウ・ファブラ」の記事における「フランス亡命後」の解説
バルセロナ プラード アンドラ公国 カタルーニャ地方の中心都市バルセロナと亡命地プラードの位置関係 1936年の選挙後に再び教員の地位に復帰したが、同年にはスペイン内戦が勃発した。第二共和政期に現代カタルーニャ語の父としてのイメージが定着していたことで、スペイン内戦勃発後には反乱軍による敵視の対象となった。ファブラは内戦中にもバルセロナを離れず、反乱軍がバルセロナに入城する6日前まで大学での講義を続けていたが、1939年1月にはバルセロナが反乱軍による大規模な攻撃を受けたため、やむなく家族とともにフランスに亡命した。 7日間滞在したスペイン=フランス国境近くの村で反乱軍のバルセロナ入城(1939年1月26日)を知り、まずは北カタルーニャのペルピニャンに、その後各地を転々とした後に地中海岸のラングドック地方にあるモンペリエで約2年間暮らした。モンペリエはフランス南部の中心的な学術都市のひとつであり、フランスで3番目に古いモンペリエ大学や図書館があったほかに、カタルーニャの知識人の多くが亡命していた。モンペリエではフランス語でカタルーニャ語の文法書を著し、1941年にパリで刊行している。 モンペリエでは『カタルーニャ語文法』(新版)もほとんど執筆を済ませていたが、モンペリエにもドイツ軍が侵入したため、74歳になっていたファブラは北カタルーニャの一部でカタルーニャ語が話されるピレネー=オリアンタル県のプラードに居を移した。亡命中にはカタルーニャ語が公用語であるアンドラ公国への移住を検討したことがある。1947年にはプラードでカタルーニャ研究週間が開催され、ファブラはフランスに住むカタルーニャ人たちを勇気づけるスピーチを行った。 1948年12月25日、ファブラはプラードで死去した。死去時にはプラードの自治体庁舎に祭壇が設けられて人々がファブラの死を悼んだが、フランコ体制下のスペインではファブラの死去が報じられることはなかった。プラードにはファブラに関する小規模な資料館がある。
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